「上杉謙信」の版間の差分

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* 戦国時代の武将としては希有な慈悲深い人物であった。主君である謙信に対して2度も謀反を起こした家臣の[[北条高広]]を2度とも許し、帰参させている。また謙信に対し幾度も反乱を起こした[[佐野昌綱]]に対しても、降伏さえすれば命を奪うことはしなかった。同様に、家臣である[[本庄繁長]]が挙兵した際も、反乱を鎮圧した後に繁長の帰参を許している。
* 一方で気性の激しさが窺い知れる伝えがある。謙信の重臣である[[柿崎景家]]の死について、『[[景勝公一代略記]]』では景家と織田信長が内通しているとの噂を信じた謙信によって死罪に処されたものとしている<ref>景家の最期は「病死、伏誅、手打ち、攻殺、逃亡」の5説がある(『柿崎景家―川中島先陣』室岡博)。また、信長と内通した末に誅殺されたのは景家の嫡子[[柿崎晴家|晴家]]だったとする説もある。</ref>。他にも厩橋城の城代・長尾謙忠を「謀反の疑い有り」として誅殺したり<ref>長尾謙忠は詰腹。一族郎党は後任城代の北条高広に託した(『関八州古戦録』)。</ref>、[[宇佐美定満]]に命じて長尾政景を謀殺<ref>謀殺説は『北越軍記』による。『謙信公御年譜』では、宇佐美定満と野尻池で舟遊びの最中、暑さを凌ぐために遊泳に興じたところ、酒に酔っていたこともあり溺死したと記している。</ref>したとする伝えもある。これらの逸話は謙信の性格の苛烈な一面を伝えているが、全てに確証があるわけではない。
* 永禄2年(1559年)8月27日、二度目の上洛の折、謙信が洛中を周覧していた時に教業坊の路頭で偶然、[[松永久秀]]と行き合った。近国一円に権勢を揮った久秀の面前においても謙信は泰然自若の構えで堂々と振舞った。異例の事態ともいえる謙信のこの態度に久秀は如何とも出来ずにいたが、その際、久秀率いる[[三好氏|三好]]・[[松永氏|松永]]の家臣の内2人が無礼を働いたのでため、謙信は三条橋辺り付近でこれを捕らえてを刎ねた。この一件について三好・松永両家から報復も苦情も・抗議は無かった(『[[上杉家御年譜|謙信公御年譜]]』)。この事件は謙信の威風と勇猛さを伝えるものとして記録されているが、同時に傲岸不遜な一面が垣間見える逸話ともいえる。
* 永禄4年(1561年)、関東管領の就任式では[[忍城]]城主・成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけたという。諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を率いて帰城してしまった。原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は[[藤原氏]]の流れをむ名家で、武家棟梁の[[源義家]]にも馬上から会釈を許された家柄であった。謙信はこの故事を知らなかったと思われるが、この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東進出の大きな足かせとなった。この事件は、謙信の激昂しやすく短慮な一面を伝える逸話として知られる。ただし、成田氏の地位はこのように尊大な態度を取れるほど過大で高くはなく、義家を馬上で迎える先例も原史料では認められず、研究者間はこれを事実とは認めていない<ref>思文閣史学叢書『戦国期東国の都市と権力』より。</ref>。
 
=== 自己の正当性への確信 ===