「小谷城の戦い」の版間の差分

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===朝倉氏、滅亡===
一方、浅井長政は居城の[[小谷城]]に5000人5千の軍勢とともに籠城した。同じ頃、浅井家重臣の[[阿閉貞征]]による織田方への寝返りは相次ぐ浅井離反を加速させ、小谷城の孤立感は益々強まっていく。これに対して浅井氏では、同盟国[[越前国|越前]]([[朝倉氏]])への援軍要請しか手段が無かった。その朝倉氏は、浅井家家中の一部から上がった反対の意見を押し切り、[[朝倉義景]]自ら2万の軍勢を率いて小谷城の北方まで進出する。ところが前哨戦で敗北した上に、構築した城砦を容易く失陥した後詰の朝倉軍。越前への連絡路を脅かされたため、やむなく撤退した。
 
織田信長は、戦機を逃さなかった。
 
織田軍本陣に[[豊臣秀吉|木下秀吉(のちの豊臣秀吉)]]を残して、信長は自ら軍を率いて撤退する朝倉軍を猛追。撤退を支えんとする殿軍を蹴散らすだけに留まらず、そのまま越前へ雪崩れ込むと、8月17日、[[朝倉氏]]の居城[[一乗谷城]]を攻め、焼き払った。最深部の[[大野郡 (福井県)|大野郡]]にまで逃れた義景を自害に追い込み、朝倉氏を瞬く間に滅ぼしてしまった('''[[一乗谷城の戦い]]''')。
 
===小谷決戦===
 
織田軍の一部を越前での戦後処理に留めた程度で、そのまま南へ取って返し、本陣へ帰還した信長。[[8月27日_(旧暦)|8月27日]]には、小谷城攻略を請け負った秀吉が、30003千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落とした。長政の居る本丸とを結ぶ曲輪を分断され、隠居の身である[[浅井久政|浅井久政(長政の父)]]は、自身の篭もる小丸にて自害。翌28日、織田軍が総攻撃を始めると、長政は嫡男[[浅井万福丸|万福丸]]に家臣を付けて城外へ逃がした。そして秀吉側から妻子の助命を条件に降伏を勧められたが、長政はこれを拒否したものの、正室[[お市の方]]と三人の娘([[浅井三姉妹]])は織田軍引渡した。
 
5000その後も5千の手勢を率いて防戦するも、織田軍の猛攻に屈して、9月1日、袖曲輪の赤尾屋敷内で長政は自害して、ここに北近江の[[戦国大名]]浅井氏は滅びた。
 
{{Japanese-history-stub|おたにしようのたたかい}}
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