「上杉謙信」の版間の差分

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=== 第四次川中島の戦いと北条の反撃 ===
[[画像:Sengoku period battle.jpg|thumb|200px|第四次川中島の戦い]]
関東から帰国後の永禄4年([[1561年]])8月、政虎は武田信玄との雌雄を決するため、1万8,000の兵を率いて[[川中島]]へ出陣する('''第4次[[川中島の戦い]]''')。荷駄隊と兵5,000を善光寺に残し1万3,000の兵を率いて武田領内へ深く侵攻、[[妻女山]]に布陣する。このとき武田軍と大決戦に及び、[[武田信繁]]・[[山本勘助]]・[[両角虎定]]・[[初鹿野源五郎]]ら多くの敵将を討ち取り総大将の信玄をも負傷させ、武田軍に大打撃を与えることに成功。特に信玄が最も信頼する実弟・信繁を討ち取ったことは、武田側にとって致命的な痛手となった。上杉軍の死傷者も甚大であったため痛み分けに終わったが、上杉軍の最高幹部級の武将に戦死者が一人もいないため、戦術的には上杉軍の勝利とされる。
 
しかしこの間に北条氏康が関東で反撃を開始、政虎が奪取していた武蔵松山城を奪還すべく攻撃した。これをうけて政虎は11月、再び関東へ出陣、武蔵国北部において氏康と戦う([[生野山の戦い]])。しかし川中島で甚大な損害を受けたことが響いたか、これに敗退(内閣文庫所蔵・小幡家文書)。ただし、この合戦で謙信自身が直接指揮を執ったという記録は発見されていない。生野山の戦いには敗れたものの、松山城を攻撃する北条軍を撤退させ、この時は松山城を守り切った。
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その後、古河御所付近から一時撤退する(近衛氏書状)。その結果、成田長泰や[[佐野昌綱]]を始め、武蔵国の同族[[上杉憲盛]]が北条方に降ってしまう。政虎は寝返った昌綱を再び服従させるため下野[[唐沢山城]]を攻撃するが、関東一の山城と謳われる難攻不落のこの城を攻略するのに手を焼いた。これ以降、政虎は唐沢山城の支配権を得るため、城主の[[佐野昌綱]]と幾度となく攻防戦を繰り広げることになる([[唐沢山城の戦い]])。12月、将軍義輝の一字を賜り、[[諱]]を'''輝虎'''(てるとら)と改めた。輝虎は越後へ帰国せず、上野厩橋城で越年する。
 
=== 武田・北条連合軍との戦い ===
関東の戦線は当初、大軍で小田原城を攻囲するなど輝虎が優勢であったが、武田・北条両軍に相次いで攻撃されるに及び劣勢を強いられる。
 
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同年2月、三度目の反抗に及んだ佐野昌綱を降伏させるため、下野へ出陣し唐沢山城に攻め寄せた。しかしこの時、10回に及ぶ唐沢山城での攻防戦の中でも最大の激戦となる。輝虎は総攻撃をかけるも昌綱は徹底抗戦した。結局、昌綱は[[佐竹義昭]]や[[宇都宮広綱]]の意見に従い降伏。輝虎は義昭や広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れた。
 
永禄7年([[1564年]])4月、武田信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ[[蘆名盛氏]]軍を撃破。その間に信玄が信濃[[野尻城 (信濃国)|野尻城]]を攻略したが奪還し、8月には川中島で再び対峙した('''第5次川中島の戦い''')。しかし信玄が輝虎との決戦を避けたため、60日に及ぶ対峙の末に越後に軍を引き、決着は着かなかった。これ以降、輝虎と信玄が川中島で相見えることはない。川中島の戦いにおいて、信濃守護を兼ねる信玄の使命である信濃統一を頓挫させることに成功した。一方で領土的には信濃の北辺を掌握したのみで、[[村上氏]]・[[高梨氏]]らの旧領を回復することはできなかった。10月、佐野昌綱が再び北条方へ寝返ったため唐沢山城を攻撃し、降伏させる。輝虎は昌綱の人質をとって帰国した。
 
しかしその頃、信玄が西上野へ進出し、上杉方の長野氏や倉賀野氏を滅ぼしてしまう。永禄8年([[1565年]])9月、輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を率いて武田軍の上野における拠点・[[和田城]]を攻めたが成功しなかった。なおこの年、2月に[[越前]]守護[[朝倉義景]]が一向一揆との戦いで苦戦していため、輝虎に救援を要請している。さらに5月には将軍・足利義輝が[[三好義継]]、[[松永久秀]]の謀反により世を去った([[永禄の変]])
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この頃から次第に越中へ出兵することが多くなる。永禄11年([[1568年]])3月、越中の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かず([[放生津の戦い]])。7月には武田軍が信濃最北部の[[飯山城]]に攻め寄せ、支城を陥落させる等して越後を脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを撃退。さらに輝虎から離反した康胤を討つべく、越中[[松倉城 (越中国)|松倉城]]・[[守山城 (越中国)|守山城]]を攻撃した。
 
ところが時を同じくして、5月に信玄と通じた上杉家重臣で[[揚北衆]](あがきたしゅう)の[[本庄繁長]]が謀反を起こす([[本庄繁長の乱]])。この対応に追われ輝虎はため、越後への帰国を余儀なくされる。越後軍の中でも精強で知られる揚北衆の繁長による反乱に、輝虎は苦心することになる。しかし輝虎はまず繁長と手を組む[[出羽国|出羽]][[尾浦城]]主・[[大宝寺義増]]を降伏させ、繁長を孤立させる。すかさず11月に繁長の居城・[[本圧城]]に猛攻を加え、謀反を鎮圧した([[本庄繁長の乱]])。12月、武田と断交した[[今川氏真]]に救援を懇願される。永禄12年([[1569年]])には蘆名盛氏の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・[[本庄顕長]]を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた義増の降伏により、出羽[[庄内地方]]を手にする。
 
永禄12年([[1569年]])3月、武田信玄への牽制、そして窮地に陥っていた関東中心部の重要拠点・下総[[関宿城]]を救うため、関東管領である輝虎は宿敵とも言える北条氏康と同盟する([[越相同盟]])。この同盟に基づき、[[北条氏照]]は関宿城の包囲を解除、上野国の北条方の豪族は輝虎に降る。北条高広も帰参が許された。
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この年、氏康の7男(異説あり)である北条三郎かつて北条三郎は北条氏秀と同一とされていたが関八州古戦録以外に出典がなく現在では否定されている。(長塚孝「北条氏秀と上杉景虎」戦国史研究12号他、黒田基樹氏の論文など)を養子として迎えた輝虎は、三郎のことを大いに気に入って[[上杉景虎|景虎]]という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇したという。12月には[[法号]]「'''不識庵謙信'''」を称した
 
元亀2年(1571年)2月、再び越中へ出陣し、椎名康胤が立て籠もる富山城をはじめ松倉城・[[新庄城]]を落城させる。しかしその後、幾度となく富山城を奪い合うことになり、越中支配をかけた輝虎と一向一揆勢力の戦いは熾烈を極めることになる('''[[越中大乱]]''')。
 
=== 越中一向一揆・北条氏との戦い ===
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元亀4年([[1573年]])、宿敵・武田信玄が病没して武田氏の影響力が薄らぐ。3月には未だ抵抗を続ける椎名康胤の守る富山城を再度攻め落とす。7月に改元がなされて天正元年(1573年)8月には越中と[[加賀国|加賀]]の国境付近まで進軍、一向一揆の立て籠もる[[朝日山城]]を落城させ、これにより越中の過半を制圧した。一向一揆は謙信が越中から軍を引き上げる度に蜂起するため、業を煮やした謙信は、ついに越中を自国領にする方針を決める。さらに江馬氏の服属で[[飛騨国]]にも力を伸ばした。
 
しかし同時期に北条氏政が上野に侵攻、これに対するため[[天正]]2年([[1574年]])、関東に出陣して上野[[新田金山城|金山城]]主の[[由良成繁]]を攻撃、3月には[[膳山城]]・[[女淵城]]・[[深沢城]]・[[山上城]]・[[御覧田城]]を立て続けに攻め落とし戦果をあげた。しかし成繁の居城である要害堅固な金山城を陥落させるに至らず。さらに武蔵における上杉方最後の拠点である[[羽生城]]を救援するため、氏政と再び利根川を挟んで相対する(第二次利根川の対陣)。しかしさすがの謙信も巨大な暴れ川である上に増水していた利根川を渡ることは出来ず、結局羽生城を自落させた。
 
同じく天正2年(1574年)、北条氏政が下総関宿城の[[簗田持助 (安土桃山時代)|簗田持助]]を攻撃するや、謙信は武蔵に攻め入って後方かく乱を狙った。北条方の騎西城・忍城・[[鉢形城]]など諸城を相次いで攻めてたが成功せず、関宿城は降伏してしまった(第三次[[関宿合戦]])。閏11月には北条方の[[古賀公方]]・[[足利義氏]]を[[古河城]]に攻めるも、攻略出来ず。12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられる。天正3年([[1575年]])1月11日、養子の喜平次顕景の名を[[上杉景勝|景勝]]と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。
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天正4年(1576年)9月、名目上管領[[畠山氏]]が守護をつとめる越中国に侵攻して一向一揆支配下の富山城・増山城・守山城を落とした。次いで椎名康胤(越中守護代)の[[蓮沼城]]を陥落させ康胤を討ち取り、ついに騒乱の越中を平定した。
 
同11月、[[能登国]]に進み、[[穴水城]]などを攻略した後、幼年の当主[[畠山春王丸]]の居城・[[七尾城]]を囲んだ('''第一次[[七尾城の戦い]]''')。しかし七尾城は難攻不落の巨城であり、攻めあぐんで越年する。天正5年([[1577年]])、春日山に一時撤退した。その間に敵軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は落とされたが、閏7月、再び能登に侵攻し、七尾城を包囲する('''第二次七尾城の戦い''')。このとき、城内で[[疫病]]が流行、厭戦気分が蔓延し、9月15日に[[遊佐続光]](能登守護代)らが謙信と通じて反乱を起こした。織田信長と通じていた[[長続連]]らは殺され、七尾城は落城し能登の傀儡国主である[[畠山春王丸]]も病により没したため、能登は上杉謙信の支配下に入った。上杉謙信には名門畠山家の復興が思慮にあり、有力国人を廃したうえで[[畠山義春]]を能登の国主として擁立する計画であったといわれている。
 
また、この戦いの後、[[畠山義隆]]の息子を養子にすると書かれた謙信書状が出されており、この子は春王丸自身や実際には[[畠山義続]]の子であるともされるまた春王丸に弟がいた可能性もあり、その弟という説があるが定説にはなってはいない。