「上杉景勝」の版間の差分

* 景勝の影響により、上杉の軍兵は戦場でも無駄口一つ聞かず静まりかえっていたという。大坂冬の陣の際、家康の使者が景勝の陣を訪れたが、景勝をはじめ誰一人として口を利かず、ただ大坂城を睨み付けていた。報告を受けた家康は「それこそ不識庵(謙信)以来の軍法よ」と賞賛したという。{{要出典}}
* 大坂冬の陣の際、彼の近習の一部が黙って合戦の見物に出かけ、竹束に隠れて見ていたとき、そこに景勝がやってきた。これに気づいた近習たちは、竹束の外に出て草むらに行き、景勝に見つからないようにしたという。景勝は家来に恐れられていたことがわかる逸話である。
* かなりの愛刀家であったとされる。卓越した鑑定眼を持ち、特に気に入ったものから選抜した「上杉景勝御手選三十五腰」と呼ばれる目録にまとめており、収集物には国宝や重要文化財が多数含まれている。
* ある時、豊臣秀吉が京都・[[伏見城]](もしくは[[大坂城]])に各大名を招き宴が開かれたが、この宴の会場に[[前田利益|前田慶次郎]]が紛れ込んでいた。宴もたけなわになった頃、慶次郎は末席から猿面をつけ手拭いで頬被りをし、扇を振りながら身振り手振り面白おかしく踊り出し、ついには列席している大名達の膝の上に座っては猿真似をやるという暴挙にまで至ったが、大名達は宴の余興ゆえに咎める者も怒り出す者もいなかった。しかし、上杉景勝の前に来ると慶次郎は膝に乗ることを避けた。その理由について尋ねられた慶次郎は、「景勝の前に出ると威風凛然としていてどうしても座ることが出来なかった」と語ったという。また「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝殿をおいて外にあるまい」と慶次郎が後に語ったということから<ref>中村忠雄「米沢史談」 </ref>、義を貫く人物は景勝をおいて他にはいないと見込んでの、慶次郎なりの敬意を示した行動だったともいわれている。
* 叔父であり義父である上杉謙信との仲については諸説あり、尊敬、思慕の対象であったという見かたから、実は険悪であったという説まで様々である。これは謙信が後継体制を築く前に急死したことが影響しているともいわれる。また父の政景が謙信と対立していたことから謙信による政景暗殺説が存在するが、これらの影響か景勝による謙信暗殺説も存在する。しかしその一方、景勝は晩年病床に臥したとき、宗心という法名を名乗っている。これは謙信がかつて名乗ったことのある法名である。
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