「会稽」の版間の差分

しかし[[後漢]]・順帝の治世下に北部を分割して呉郡が設置され、呉県はその呉郡の治所となった。これにともない会稽郡の治所は山陰県(現在の浙江省紹興市)へと移された([[129年]])。
 
後漢末期、会稽の太守に任じられていたのは[[王朗]]である。しかし急速に力をつけてきた[[孫策]]に攻められて、遁走。それ以後は孫策が会稽太守を名乗り、[[三国時代 (中国)|三国時代]]にわたって会稽は[[呉 (三国)|呉]]の中心的な地域となった。この呉の頃になって会稽郡はさらに分割される。すなわち、その南部が臨海郡、建安郡、および東陽郡の三つに分けられ、会稽郡は現在でいう浙江省紹興市(紹興酒産地)付近を領域とする小さな郡となった。
 
その後、六朝時代の間はこの規模が維持された。風光明媚な地であったこともあり、東晋の書家[[王羲之]]、宋の詩人[[謝霊運]]などがこの地に移住した。謝霊運は、詩作に励んだのみでなく、この地域の農地開発にもつとめた。[[隋]]の頃になって郡が廃止され州県制が施行されると、会稽郡は廃止され、越州となった。こうして行政区域としての会稽という名は消えるが、歴史ある会稽と会稽山の名は後世に残り、今もこの地の名物などにその名を見る事ができる(例えば紹興酒の銘柄に会稽山というものがある)。
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