「憲政会」の版間の差分

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しかし次の[[寺内内閣]]に対して[[野党]]の立場を取ったために次の総選挙で大敗し、以後第39~48[[議会]]([[1917年]](大正6年)‐[[1924年]](大正13年))において立憲政友会につぐ第2党として[[元老]]の否認や[[シベリア出兵]]反対、[[労働組合]]の公認、[[憲政の常道]]に基づく政権交代を主張したものの、政友会の[[原敬]]が[[総理大臣]]として[[政党]][[内閣]]を組織して国民の人気を集めた時期と重なり、「苦節十年」とも呼ばれる長期低落傾向が続いた。だが、都市部において支持を獲得して[[1924年]][[第2次護憲運動]]の主力となり、[[第15回衆議院議員総選挙]]では151議席を獲得して第1党に返り咲いて[[清浦内閣]]を倒し、加藤高明を首班とする[[護憲三派]](憲政会・立憲政友会・[[革新倶楽部]])内閣を実現させて[[普通選挙法]]などを実現させた。後に憲政会単独内閣を組織する。加藤の死後は[[若槻禮次郎]]が総理・総裁に就任するが、[[昭和金融恐慌]]で政権は崩壊、[[1927年]](昭和2年)には政友会から分裂した[[政友本党]]と合同して、[[立憲民政党]]となった。
 
== 歴代憲政会総裁一覧 ==
'''憲政会総裁'''
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