「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」の版間の差分

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[[1951年]]9月8日に[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]が締結され、日本と連合国との戦争状態は正式に終結したが、講和会議に中国の代表として中華人民共和国を招請しなかった事に反発するソ連は、会議には出席したものの、条約調印は拒否した。そのため、[[1952年]]4月28日の条約発効とともに対日理事会が消滅した後は、日ソ両国の接点は失われた。
 
ただし、ソ連も日本との外交関係回復は、同じ敗戦国の[[西ドイツ]](ドイツ連邦共和国)同様、戦後処理の政治的・経済的課題として存在しており、[[1953年]]の[[ヨシフ・スターリン]]死去と朝鮮戦争の休戦は西側諸国との関係改善をより積極的に進める要素となった。日本でも親米主義に傾倒する吉田茂首相が[[1954年]]に退陣し、[[保守]]派ながらアメリカ以外の国も重視した独自外交を模索する[[鳩山一郎]]へ政権が交代した事で、外交交渉開始への環境が徐々に整っていった。また、日本の国際社会復帰を完成させる[[国際連合]]加盟には、日本の加盟案に対して[[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会]]で[[拒否権]]を発動するソ連との関係正常化が不可欠であった。
 
===交渉の経緯===