「九七式戦闘機」の版間の差分

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中島は、先代の九五式戦闘機の競争試作の際に低翼単葉の[[キ11 (航空機)|キ11]]を提案したが、当時としても保守的な複葉を採用した川崎に敗れた。キ11は単葉ながら主翼に強度保持の為の支線を張り巡らし、斬新さは今一歩であったが、キ27では抵抗大の張線を全廃し、空気力学的に洗練された流麗な外形となった。
 
本機で初採用された前縁直線翼は、新任技師だった[[糸川英夫]]の発案によるもので、主翼前縁の後退角がゼロで後縁の前進のみでテーパーし、翼端部捻り下げのため主桁は軽い前進角を持つ。本形式はその後[[一式戦闘機|一式]](隼)・[[二式単座戦闘機|二式単座]](鍾馗)・[[四式戦闘機|四式]](疾風)の、[[小山悌]]設計主務者による一連の中島製単座戦闘機に採用され続けた。プロペラも、糸川と同じく新任技師の[[佐貫亦男]]([[ヤマハ|日本楽器製造]])が担当した。
 
剛性向上と軽量化を図るため、通し桁を用いて左右翼を一体製造した。その上に発動機架・操縦席を含む胴体中央部を載せ、機体後部をボルト留めする機体分割法も新規開発され、本機以降の日本陸海軍機の標準的技法になった。また、操縦席の後ろに胴体内燃料タンクを持たない代わりに、陸軍単座戦闘機として初めて落下タンク([[増槽]])を装備した。
 
1937年当時、列強の新鋭機では[[降着装置|引込脚]]が既に主流であったものの、敢えて保守的な固定脚が流線型スパッツ装備の上で採用された。頑丈かつ軽量で不整地への離着陸も可能だったが、[[中国大陸]]ではスパッツと車輪の間に泥や草が詰まるため、前線ではカバーを取り外して運用する場合も少なくなかった。
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==活躍==
[[1938年]](昭和13年)より日中戦争の実戦に九五戦の後続機として参加実戦投入
 
[[1939年]](昭和14年)、日本軍と[[労農赤軍|ソ連軍]]が[[モンゴル]]で2度に渡って戦った[[ノモンハン事件]]では、ソ連軍の[[複葉機|複葉]]戦闘機[[I-153_(航空機)|I-153]]や単葉戦闘機[[I-16 (航空機)|I-16]]と空中戦を行い、運動性の良さで敵を圧倒し大戦果を上げ、日本軍の戦線の崩壊とソ連の進軍を防いだ。複葉戦闘機すら蹴散らす旋回性と、「空の狙撃兵」と謳われたほどの射撃安定性の両立が生んだ成果であった。