「小唄勝太郎」の版間の差分

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戦時中も勝太郎の活躍は続き、[[1942年]](昭和17年)に発売された『明日はお立ちか』は、放送局にリクエストの電話が掛かってくるほどの大反響を呼び、久々の大ヒットとなった。軍需工場の慰問などに忙しい日々を送っていた勝太郎であったが、内地で終戦を迎える。[[1946年]](昭和21年)、コロムビアに移籍。[[古賀政男|古賀メロディー]]『伊豆の七島』、親交の深かった歌舞伎俳優・[[市村羽左衛門]]を偲ぶ『橘家』などをレコーディングするが、[[1948年]](昭和23年)には[[テイチクエンタテインメント|テイチクレコード]]に移籍した。映画主題歌『大島情話』がヒット。[[1950年]](昭和25年)には親善使節として日本の芸能人としては戦後初めて、[[渡辺はま子]]、三味線けい子らと渡米し、[[ハワイ]]、[[ロサンゼルス]]、[[サンフランシスコ]]と、現地の[[日系人]]に『東京音頭』の歌手として大人気を博す。さらに、[[東海林太郎]]らとともに[[ブラジル]]へも赴き、こちらでも日系人の熱烈な歓迎を受けている。
 
[[1961年]](昭和36年)、設立間もない[[EMIミュージック・ジャパン|東芝レコード]]に移籍。主に民謡を中心にレコーディング活動を続けた。昭和40年代の[[懐メロ]]ブームには欠かせない存在となり、[[テレビ東京|東京12チャンネル]]の「なつかしの歌声」には常連のメンバーで、死の直前まで出演している。たゆまぬ精進が認められ、[[1971年]](昭和46年)、[[紫綬褒章]]受章。さらに[[1974年]](昭和49年)には、勲四等宝冠章を受章。古巣のビクターで『島の娘』や『東京音頭』など往年のヒット曲を再レコーディングするなど、積極的に活動していたが、[[肺癌]]のため、同年6月に69年の生涯を閉じた。
 
[[Image:KoutaKatsutaroMonument.jpg|200px|right|thumb|小唄勝太郎顕彰碑]]