「瘞鶴銘」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
イメージ変更
→‎概要: 誤解を避けるため改良
7行目:
本来は[[江蘇省]][[鎮江]]丹徒区にある[[焦山]]の西麓、[[長江]]畔の岸壁に刻された摩崖の作であった。しかし、[[宋代]]の頃に落雷に遭い、川に崩落。[[淳煕|淳煕年間]]に一旦水面に引き上げられたが、その後また落水。[[清代]]の[[康熙]]52年(1713年)になってようやく[[陳鵬年]]が人を集めて引き上げ、焦山にある[[定慧寺]]に安置した。このとき既に5つの塊に砕けていたためつなぎ合わせて補修しており、現在88字が残されている。
 
瘞鶴銘の拓本は宋の[[陳思]]『宝刻叢編』・宋の[[趙明誠]]『金石録』・[[明]]の[[都穆]]『金薤琳琅』等の著作に収録されている。水中にあるとき、苦労して水を堰き止めて仰向けになって拓本を採ったが、これを特に「水前本」と称してもっとも貴ばれた。のちの時代になると拓本が採られすぎて碑文の字跡が摩滅してしまったからである。[[故宮博物院#北京|北京故宮博物院]]には、宋代に採られた拓本「仰石本」が収蔵されており30字程度確認できる。これには[[王文治]]の題跋が書され、23もの所蔵印が捺されている。この拓本は宋の[[陳思]]『宝刻叢編』・宋の[[趙明誠]]『金石録』・[[明]]の[[都穆]]『金薤琳琅』等の著作に収録されている。
 
この碑文には年月が記されておらず、「華陽真逸書」の五文字が署されているがそれが誰であるのかわからずにいた。[[北宋]]の[[蘇軾]]や黄庭堅は[[王羲之]]のものとし、[[欧陽脩]]は[[顧況]]であるといい、他にも[[王瓚]]や[[顔真卿]]という説があった。北宋の[[黄伯思]]の『東観餘論』や[[南宋]]の[[李石]]の『続博物誌』では[[陶弘景]]の書いたものとしているが、明の都穆や清の[[顧炎武]]などがこの説を支持したため、以降定説となった。華陽真逸とは陶弘景の号である。