「四式十五糎自走砲」の版間の差分

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'''四式十五糎自走砲'''とは、[[大日本帝国陸軍]](以下陸軍という)の制式[[自走砲]]である。[[第二次世界大戦]]末期の[[1944年]](=[[皇紀]]26'''04'''年)に採用され、少数が[[フィリピン]][[沖縄]]で使用された。
 
== 開発 ==
四式自走砲は旧式の[[三八式十五糎榴弾砲]]に機動性を持たせることで有効活用しようという意図から開発された。モデルとなったのは[[ドイツ]]軍が運用していた[[I号自走重歩兵砲 ]]や[[グリーレ]]のような[[15cm sIG33]][[歩兵砲]]を搭載した自走砲であった。
 
秘匿名称「ホロ」と名づけられた新型自走砲の開発は[[1944年]]7月に[[陸軍技術本部]]で始まり、同年8月には早くも試作車が完成するに至った。三八式榴弾砲は砲架ごと[[九七式中戦車]]の車体に搭載され、砲の前面と側面は防盾で覆われていた。防盾は正面でも25mmしかなく、また後方は無防備であるがこの点は本車を防御兵器として使用する観点からあまり問題とされなかった。照準器は直接照準射撃が可能なものであり、このことから本車が大口径火砲の威力を生かした対戦車戦闘を想定して開発されたことが分かる。ただし砲の旋回角は左右3度しかなく、これは問題であった。砲弾は戦闘室および機関室上部の砲弾箱にそれぞれ搭載された。なお、砲弾搭載数については12発説や28発説など諸説ある
 
本車に搭載された照準器は直接照準射撃が可能なものである。ベースには九七式五糎七戦車砲用の照準眼鏡を用い、焦点鏡目盛を交換した。これは3,000メートルまで照準できる縦目盛と、左右各100ミルの方向目盛が刻まれたものである。間接射撃用として、車長が使う照準眼鏡があった。これは三八式十五榴弾砲に装備されていたものであった。
== 戦力化と実戦 ==
開発当時、フィリピンを[[アメリカ合衆国|アメリカ]]軍との一大決戦場とする「比島決戦」を唱えていた陸軍はホロ車を直ちに「四式十五糎自走砲」として制式化し、早急に戦力としてフィリピンに送ることを決定した。部隊の編成に当たっては[[陸軍野戦砲兵学校]]から要員が選抜され、12月8日に四式自走砲3門を装備する「第1自走砲中隊」(中隊長 鷲見[[中尉]])の編成が行われた。
 
この照準器からも本車は大口径火砲の威力を生かした対戦車戦闘を想定して開発されたことが分かる。ただし砲の旋回角は左右3度しかなく、これは問題であった。砲弾は戦闘室および機関室上部の砲弾箱にそれぞれ搭載された。車内16発、後部車体上の弾薬箱に12発、計28発である。
部隊は早急にフィリピンに送られることとなり、同月22日に[[輸送艦]]に乗ってフィリピンに向け出発した。しかし翌年1月1日にはフィリピン近海で輸送隊がアメリカ軍機による[[空襲]]を受け、中隊は自走砲1門と多くの装備品を失ってしまった。なんとかフィリピンに揚陸できた自走砲2門と中隊は[[第14方面軍 (日本軍)|第14方面軍]]直轄の「第十四方面軍仮編自走砲中隊(鷲見隊)」として再編成され、同地の独立戦車第8中隊(九七式中戦車改装備)と共にクラーク地区で[[飛行場]]防衛任務に就いた。飛行場防衛戦で四式自走砲はその威力と機動力を生かして活躍し、敵[[M4中戦車]]に損害を与えるなどしたが2月と3月にそれぞれ撃破されてしまった。部隊残余は歩兵として終戦まで山岳地帯で戦った。
 
== 戦力化と実戦 ==
開発当時、フィリピンを[[アメリカ合衆国|アメリカ]]軍との一大決戦場とする「比島決戦」を唱えていた陸軍はホロ車を直ちに「四式十五糎自走砲」として制式化し、早急に戦力としてフィリピンに送ることを決定した。部隊の編成に当たっては[[陸軍野戦砲兵学校]]から要員が選抜され、12月8日に四式自走砲3門を装備する「第1自走砲中隊」(中隊長 鷲見[[中尉]])の編成が行われた。
 
また、終戦直前に陸軍は来るべき[[本土決戦]]に向けて[[三式砲戦車]]と四式自走砲を基幹とする独立自走砲10ヶ大隊の整備を構想し、実際に陸軍野戦砲兵学校での要員教育と自走砲の配備が開始されたが整備が完了しないうちに敗戦となった。因みに四式自走砲は各部隊合計で10門程度が配備された。
 
== フィリピンにおける四式十五糎自走砲 ==
部隊は早急にフィリピンに送られることとなり、昭和19年12月22日に[[輸送艦]]青葉山丸に乗ってフィリピンに向け出発した。しかし翌年1月1日にはフィリピン近海で輸送隊青葉山丸がアメリカ軍機による[[空襲]]を受け、被弾沈没。中隊は自走砲1門と多くの装備品を失ってしまった。なんとかフィリピンに揚陸できた自走砲2門と中隊は[[第14方面軍 (日本軍)|第14方面軍]]直轄の「第十四方面軍仮編自走砲中隊(鷲見隊)」として再編成され、同地の独立戦車第8中隊(九七式中戦車改装備)と共にクラーク地区で[[飛行場]]防衛任務に就いた。飛行場防衛戦で四式自走砲はその威力と機動力を生かして活躍し、敵[[M4中戦車]]に損害を与えるなどしたが2月と3月にそれぞれ撃破されてしまった。部隊残余は歩兵として終戦まで山岳地帯で戦った。
 
独立戦車第八中隊はクラークフィールド飛行場を守備し、鷲見中隊は隣接するクラークマルコット飛行場を防衛するよう命令された。鷲見中隊は途中空襲にあって被害を出したが、1月20日ころ現地到着し、警備を開始した。
鷲見中隊の2門の自走砲は飛行場に近い二の谷(一の谷から六の谷まであった)に段列を配置、ここを陣地として飛行場を守備した。段列は無傷であり、弾薬は豊富であった。第二分隊と第三分隊から成る2門の自走砲は、連日、陣地から飛行場へ出撃し、砲撃を行った。
 
1月27日、M4中戦車との対戦車戦闘が発生した。激しい砲爆撃の状況で、飛行場は爆煙と吹き上げる土砂に覆われ非常に視界が悪かった。このため自走砲は200mから300mという至近距離での各個戦闘を余儀なくされた。2門の自走砲は砲撃の後に数分で陣地変換し、すぐさま砲撃に移るという機動戦闘を行った。弾種は榴弾である。この戦闘でアメリカ軍の攻撃を撃退したが、鷲見中隊長が胸部を負傷、ほか5名が負傷して中隊の戦力は低下した。
 
1月29日の午後二時、アメリカ軍は独立戦車第八中隊に対して攻撃発起し、自走砲中隊は援護射撃を命令されたが、戦場は砲爆撃により錯綜、さらに敵観測機が警戒している状況であった。自走砲は爆煙の中で100mから200mほど頻繁に位置を変える機動戦闘を行った。砲煙をすかしての対戦車戦闘の結果、敵戦車7両の撃破が確認された。これは独立戦車第八中隊との共同戦果であった。
 
同日午後6時ごろ、陣地に後退を決意した第二分隊の自走砲はM4戦車3両と遭遇した。幸いなことに自走砲はエンジンを止めており、M4戦車はその存在に気が付いていなかった。搭乗員は進退をどうするべきか決めかねていたが、やがてM4戦車は自走砲の方へと進みはじめ、これを見た第二分隊の自走砲は2発を発砲。全速力で路上を突破した。暗闇に助けられM4戦車から直撃は受けなかったものの、榴弾の破片により指揮官小幡少尉が戦死、安藤曹長が重傷を負い、弾薬手二人と操縦手も負傷した。この日の戦闘でアメリカ軍はマルコット飛行場を占領した。中隊は三の谷と四の谷へ後退し、戦闘を継続した。
 
2月8日、マルコット飛行場から敵戦車が二の谷を攻撃。迎撃のため第二分隊の自走砲が出撃したが、谷間を移動する自走砲は山上からの重機関銃による集中射撃を受け、乗員4名戦死。自走砲は大破炎上した。残った第三分隊の自走砲は3月初旬ごろ、M4との対戦車戦闘において撃破された。
 
部隊残余は歩兵として終戦まで山岳地帯で戦った。
 
== 生産 ==
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* [[試製四式十二糎自走砲]]
 
== 参考文献 ==
* 鈴木邦宏 「帝国陸軍機甲部隊の塗装と識別標識」『Armour Modelling』13号、1999年、98-101頁。
 
{{第二次世界大戦の日本の装甲戦闘車両}}