「一〇〇式輸送機」の版間の差分

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| 分類=
| 設計者=
| 製造者=三菱航空機(現[[三菱重工業]]
| 運用者=日本([[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]・民間)
| 運用者 more=
| 初飛行年月日=[[1940年]]
| 生産数=507機以上
| 生産開始年月日=1940年
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| ユニットコスト=
}}
'''一〇〇式輸送機'''(ひゃくしきゆそうき、キ57)は[[大日本帝国陸軍]]の輸送機で、[[九七式重爆撃機]]。試作名称キ21)を元に設機体された画番号設計キ番号)'''キ57'''。[[三菱重工業]]。連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]のコードネームは'''Topsy'''(トプシー)。開発・製造は[[三菱重工業]]
 
[[九七式輸送機]]の後続機として、[[九七式重爆撃機]]を元に設計された。
 
== 概要 ==
{{14年(1939年)暦|1939}}[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]三菱に対して新型輸送機の開発を指示した。指示の主な内容は[[九七式重爆撃機]]の胴体部分を改設計し、人員輸送を主目的とするというものだった。{{15年暦|1940}}([[1940年神武天皇即位紀元|皇紀]]26'''00'''年)に初飛行した本機の諸性能は、母体である九七式重爆撃機の特性をそのまま引き継いでおり、飛行試験でも特に問題はなかったため'''一〇〇式輸送機'''として制式採用された。
 
九七式重爆撃機との胴体以外の相違点は中翼から低翼となったことと、爆撃機においては被弾時に火災の面に弱いことから嫌われ禁忌となっていた外翼内燃料タンク([[インテグラルタンク]])を設け、必要に応じて使用できるようになっていたことなどである。後に一〇〇式'''一型輸送機'''('''キ57-I''')と呼ばれるこの機体は[[エンジン]]に[[ハ5 (エンジン)|ハ5改]](出力850hp)850[[馬力|hp]])を装備しており、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])初期の[[蘭印作戦#パレンバン]]攻略空挺作戦|パレンバン空挺作戦]]で[[落下傘部挺進連隊|陸軍挺進連隊]]の輸送・[[落下傘]][[エアボーン|降下]]に活躍した。
 
落下傘部隊用には座席をすべて木製ベンチとする、扉を内開きの大型のものとする、指揮官用のぞき窓の設置、客席両側窓に銃座を設置などの改修が施されている。なお、一型は一部の機体が[[大日本帝国海軍|海軍]]に譲渡されてL4M1(三菱双発輸送機(L4M1)として試用された。
 
{{17年([[暦|1942年]])}}には、エンジンを[[瑞星 (エンジン)|ハ102]](出力1,080hp)に換装し主翼の強化や貨物室の増設を行った'''二型'''一〇〇式二型輸送機'''キ57-II''')が登場し、陸軍の主力輸送機として員輸送、[[グライダー]]曳航、物資輸送などの任務で終戦まで活躍した。二型において行われた改修はエンジン換装と主翼強化の他は以下のようなものである。
::・中央翼燃料タンクに排出装置を設置(23号機から)
::・客室窓を利用した非常脱出口の設置(2号機から)
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::・集合排気管を外側にだけ開口(1号機から)
::・客席の15席への増加(405号機から)。17~19人用の長椅子に変更も可能
::・滑空機の曳航装置の追加(昭和19(1944年3月試作、同年8月以降標準装備)
 
本機は、当時の国産輸送機としては機体性能も運用性も最良の機体で、他国の双発輸送機と比べても遜色のないものだった。ただ、九七式重爆撃機のスリムな機体が原型だったためか、他国の同一規模の輸送機と比べると搭載量や輸送人員が少ない点が欠点であった。
 
{{16年暦|1941}}から{{20年暦|1945}}1月まで、三菱において軍用民用合わせて一型101機、二型406機の合計507機製造された。生産は昭和201945年1月以降、[[日本国際航空工業]]に移管されたが、移管後の生産数は不明とされている(10機製作とする資料あり)。これは戦前の国産輸送機としては最多であった。民間機としては[[三菱MC-20|MC-20]]の名称で製造され、[[大日本航空]]をはじめ民間[[航空会社]][[新聞社]]などで多数使用された。
 
== スペック ==
(二型、キ57-II)
* 全長: 16.10 m
* 全幅: 22.60 m
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*[[日本製航空機の一覧]]
*[[九七式重爆撃機]]
 
{{大日本帝国陸軍}}
[[Category:大日本帝国陸軍航空機|ひやくしきゆそうき]]