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鷺舞の源流は八坂神社の[[祇園祭]]にて奉納されたもので、中国の[[七夕]]伝説を端緒にするものとされる。また、名前は鷺舞であるが、この鷺とは歌詞(後述)にもあるように、[[鵲]]であるともされる。鵲は七夕伝説に於いて、[[アルタイル|牽牛]]と[[ベガ|織女]]のため、[[天の川]]に桟を渡した存在であり、歌詞もその伝承に因んだものである(後述)。しかしながら、京都では鵲は飛来してこないため鵲という存在を知らず、そのため鵲とは鷺の一種であろうと[[笠]]を被った[[白鷺]]をカササギに見立てたものとされている。鵲の姿が黒色であるのに対し、姿が白いのはそのためである。
 
津和野の鷺舞は[[山口祇園祭|山口祇園会]]を経て伝習されたもので、1542年([[天文 (元号)|天文]]11年)、時の城主、[[吉見正頼|吉見大蔵正頼]]が[[大内義興]]の息女を迎え入れたことで、彼女の[[疫病]]除けを祈念して始められた。その後、戦乱の世に伴って一旦廃絶するものの、1645年([[正保]]元年)に[[亀井茲政]]が坂田屋兵左衛門ならびに野村仁左衛門の二人を京都に派遣、鷺舞を直接習得させたことで、津和野では以後四百年に亘る年月の間、一度も廃絶することなく連綿と奉納され続けることになった。尤も、その間、様式が変わったり、様々な儀式やならわしなどが簡略化されていったりしており、完全にありのままの形が継承されているわけではないが、貴重な遺産であるとして、当時の文化庁より重要無形民俗文化財の指定を受けた。
 
一方の本家、八坂神社では江戸時代中期に絢爛豪華な山鉾や傘鉾巡行に圧されるような形で存在感が薄くなっていき、いつしか廃絶の憂き目にあった。その後は、戦後になるまで奉納はされなくなっていたが、1956年([[昭和]]31年)、祇園会保存会の一員でもあり、[[狂言師]]でもある[[木村正雄]]が逆に津和野の鷺舞を習得したことで復活、再び奉納されるようになった。今日ではそのほか、[[山口市]](山口祇園祭鷺の舞)、秋田県[[潟上市]]([[飯田川]]鷺舞まつり…1984年〈昭和59年〉より)、[[浅草寺]](浅草寺白鷺の舞…1968年〈昭和43年〉より)などでも奉納されている。