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'''斎藤 耕一'''(さいとう こういち、[[1929年]][[2月3日]] - [[2009年]][[11月28日]])は、[[日本]]の[[映画監督]]、[[写真家]]。
 
 
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[[1954年]]、[[日活]]に引き抜かれ、[[中平康]]、[[今村昌平]]、[[市川崑]]など多くの作品のスチルを担当する。若き日の[[石原裕次郎]]とも仕事仲間で親しく、裕次郎のデビュー直後に、最初の写真集『海とトランペット』を出している。(復刻版[[日刊スポーツ]]出版社、1987年8月)。また、[[中平康]]の『[[月曜日のユカ]]』などの脚本も手がける。
 
しかし次第に自身のイメージと作品とのあまりのずれに失望し、[[1967年]]、私財を投じて「斎藤プロダクション」を設立する。同年、自ら脚本も書いた囁きのジョーで監督デビューする<ref name="asahi">「斎藤耕一さん」 『朝日新聞』 2009年11月29日、13版、39面。</ref>
 
以後、『小さなスナック』など[[松竹]]の「歌謡映画」を撮っていたが、[[1972年]]、[[岸惠子]]扮する仮釈放の女囚と[[萩原健一]]扮する強盗犯との短い恋を描いた『[[約束 (日本映画)|約束]]』で評価を高め、『旅の重さ』、[[キネマ旬報]]ベストワンにかがやいた『津軽じょんがら節』と次々と発表し、日本を代表する映画監督のひとりとなる。
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その後も日本の風土を背景にした作品を撮り続けている。特に、当時「日本一荒れた学校」と報道された「稚内南中学校」が全国民謡民舞大会で日本一になった実話をもとに作られた『[[稚内発・学び座]]』は、[[1999年]]に公開され、大反響を呼んだ。
 
[[1974年]]、[[芸術選奨]]文部大臣賞、[[1994年]]、[[紫綬褒章]]受章<ref name="asahi"/>
 
2009年11月28日、[[肺炎]]のため死去。{{没年齢|1929|2|3|2009|11|28}}<ref name="asahi"/>
 
==代表作==
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*親分はイエス様(2001年)
*おにぎり ARCADIA物語(2004年)
 
== 脚注 ==
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{{Reflist}}
 
{{DEFAULTSORT:さいとう こういち}}
[[Category:日本の映画監督]]
[[Category:日本の写真家]]
[[Category:1929年生]]
[[category:2009年没]]