「国家学会」の版間の差分

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== 沿革 ==
=== 「政治学科」の自立 ===
国家学会設立の背景には、近代日本の学問研究における「[[政治学]]」の自立が大きく関わっている。すなわち、明治初期、唯一の大学であった[[東京大学 (1877-1886)|(旧)東京大学]]([[法学部|法]]・[[文学部|文]]・[[理学部|理]]・[[医学部|医]]4学部で構成)において、政治学の専攻部門は「政治学理財学科」として経済学とともに文学部に管轄されていたが、[[1885年]]12月法学部に移管、さらに翌[[1886年|86年]]3月の[[帝国大学令]]公布により[[東京大学|帝国大学]][[法学部|法科大学]]の「政治学科」として改編された。これにともない政治学の研究は従来所属していた「文学会」から分離し[[1887年]]2月「国家学会」として独立、ついで翌3月には機関誌『'''[[国家学会雑誌]]'''』を創刊した。
 
===[[ドイツ学]]の覇権===
しかし学会設立の要因に際しては、先述のような東京大学内部の事情のみならず、当時[[大日本帝国憲法|憲法]]草案をほぼ完成していた[[伊藤博文]]が[[渡辺洪基]](総長)に対し「大(おおい)ニ国家学ノ研究ヲ振興シ、普(あまね)ク国民ヲシテ立憲ノ本義ト其運用トヲ知ラシムルコトガ極メテ必要デアル」と助言したこと大きく関わっている。つまり[[明治十四年の政変|1881年政変]]の結果、[[英米法|英米系]]および[[フランス法|仏系]]の[[法学]]が官立学校から排除され、これらの拠点が私立の[[法律学校 (旧制)|法律学校]]にシフトしたことから、政府は私学に対抗し官学(=東大)を[[ドイツ法|ドイツ系法学]]・国家学の砦にしようとしたのである([[阪谷芳郎]]の回想によれば、この点に関連して、当時「政府当局者が自由思想を抑圧し独逸系の国家学説を我邦に注入せんと試みんとするもの」という憶測が流れていた)。そのため国家学会の発足は、一般に「'''日本のアカデミズムにおける[[ドイツ学]]優位の確定'''」([[石田雄]])として位置づけられている。
 
=== 「純学理」の研究へ ===
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==活動==
先述の伊藤との関係により、[[1889年]]には[[大日本帝国憲法]]と[[旧皇室典範|皇室典範(1889年~1947年)]]の公式解説書たる『[[憲法義解|憲法義解及皇室典範義解]]』の版権が著者の伊藤から学会に寄贈され、同年に学会から公刊され基本財産となった。刊行物としては創立30周年記念出版の『明治憲政経済史論』([[1919年]])、50周年記念の『国家学論集』([[1937年]])、戦後に刊行された『新憲法の研究』([[1947年]])、100周年記念の『国家と社会』([[1987年]])などがあるが、最近は機関誌『国家学会雑誌』の刊行が中心になっている。
 
==関連項目==