「私塾立命館」の版間の差分

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== 概要 ==
===賓師===
私塾立命館の賓師として迎えられたのは、当時の著名漢学者たちであった。西園寺公望は、「教師には朱子学者、[[水戸学]]の儒者をむかえ、文章家として聞こえた人もあった。(略)京都にいる漢学者のえらい所をぬき集めたという形だった」と述べている(木村毅編『西園寺公望自伝』)。実際に、賓師として確認されているのは、[[江馬天江]]、[[広瀬青邨]]、[[松本士竜]](松本巌)、[[富岡鉄斎]]、[[神山鳳陽]](四郎)らである。明治3年([[1870年]])、広瀬青邨が西園寺の詩文会に招かれたとき同席していた者には、[[尊攘運動]]に加わって[[岩倉具視]]の知遇をえていた[[山中静逸]]、江馬天功の実兄で、[[池田屋事件]]で投獄される[[板倉槐堂]](淡海竹洲)、[[本草学者]][[山本亡羊]]の子で[[漢方医]]だった[[山本秀五郎]](秀夫)や[[浜崎廉太郎]](直全)らがあったほか[[谷口靄山]]らも参加していたとされるから、この中にも賓師として迎えられたものがあったと思われる(「青邨公手沢日記」)。
 
===塾の性格と規模===
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*[[織田萬]]
*[[学校法人立命館]]
*[[立命館大学#西園寺記念館|西園寺記念館]]
*[[西園寺公望]]
*[[末弘威麿]]
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[[Category:明治時代の教育]]
[[Category:日本の旧制教育機関]]
[[Category:京都府の旧制教育機関]]
[[Category:立命館大学]]