「ニクラス・アレクサンデション」の版間の差分

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|所属チーム名=[[IFKヨーテボリ]]
|ポジション=[[ミッドフィルダー|SH]]、[[ディフェンダー (サッカー)|SB]]
|背番号=1038
|利き足=右
|代表国={{SWEf}}
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== 概要 ==
両サイドのサイドハーフ、サイドバックのポジションをこなした元[[サッカースウェーデン代表|スウェーデン代表]]選手。1988年に[[ハルムスタッドBK]]でプロデビューを果たして下済みを終えた後、[[アールスヴェンスカン]]の強豪クラブ[[IFKヨーテボリ]]に1年間所属し、レギュラーとして活躍してリーグ優勝を経験。その後イングランドに渡り、[[プレミアリーグ]]の[[シェフィールド・ウェンズデイ]]に移籍。2部降格寸前だったチームを支え、ファンの人気を博した。その実力を同リーグの[[エヴァートンFC]]がいち早く見抜き、同クラブから勧誘を受け移籍。2001年、2002年ではチームの主力として活躍した。しかし2002年のシーズン中に大怪我に見舞われると、残りの試合を失うとともに、回復した2003年をも出場機会を失ってしまう。彼いわく「自分がダメな選手だと思った」時期だったという。その後出場機会を求めて[[ウェストハム・ユナイテッド]]へ移籍。しかし出場機会は少なく、ベンチ入りでとどまることが多かった。そんな中、2004年のシーズン中、古巣IFKヨーテボリからの移籍の勧誘を受ける。しばらく検討した後、IFKヨーテボリへの移籍を表明。2003年のシーズンの途中にIFKヨーテボリへの移籍を表明。IFKヨーテボリでは移籍直後からレギュラーとして定着し、順調に自分のプレーを取り戻して、2005年からはキャプテンとしてチームを引っ張った。2008年、「自分のパフォーマンスをチーム合わせていくのが年々きつくなっていっている」と語り、その理由をもとに、選手として引退した。引退試合ではヘディングでゴールを決め、最後の華道を飾った。
しかし、2009年シーズン終盤に優勝争いをしていたチーム内でケガ人が続出。チームの窮地を救うために現役復帰を果たし、5試合に出場。
IF Brommapojkarna戦で復帰後、初ゴールを挙げた。
 
代表では1993年のオーストラリア戦で代表デビュー。[[1994 FIFAワールドカップ]]は当然ながらメンバーに呼ばれなったものの、大会後からは毎試合のように代表に招集され、スウェーデン代表の右サイドハーフの座を自分のものにした。[[UEFA欧州選手権2000]]では背番号11でレギュラーとして出場。大会後は[[ホーカン・ミルド]]から背番号7を継ぎ、以降から背番号は7番が定着した。[[2002 FIFAワールドカップ]]でも全試合に出場し、初戦のイングランド戦では強烈なミドルシュートによる同点ゴールを決めるなど、「死の組」といわれたグループFの1位通過に大きく貢献した。しかしその後、クラブでの出場機会の減少により代表からも遠ざかってしまう。それにより[[UEFA欧州選手権2004]]の招集も逃してしまった。その後のIFKヨーテボリへの移籍により何とか自分のプレーを取り戻すも、[[クリスティアン・ヴィルヘルムション]]の台頭により、[[フレドリック・ユングベリ]]の控えとして左サイドが主戦場となった。しかし[[2006 FIFAワールドカップ]]予選中、「攻撃性」を期待されて右のサイドバックに抜擢された。それが思いのほか機能し、以降サイドバックが定着し、[[2006 FIFAワールドカップ]]では熾烈なポジション争いの後全4試合を右サイドバックでフル出場を果たした。[[UEFA欧州選手権2008]]予選時では一時期規律違反によりチームから抜けていた[[クリスティアン・ヴィルヘルムション]]の代わりに右サイドハーフでプレーするが、[[UEFA欧州選手権2008]]本戦ではサイドバックで出場した。初戦での怪我により出場は1試合にとどまったが、この大会を機に代表を引退した。合計109キャップ、7ゴールの代表キャリアとなった。
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*[[エヴァートンFC]](イングランド) 2000-2003
*[[ウェストハム・ユナイテッド]](イングランド) 2003-2004
*[[IFKヨーテボリ]](スウェーデン) 2004-2008
 
{{UEFA欧州選手権2000スウェーデン代表}}