'''鶴田知也 '''(つるた ともや、[[1902年]][[2月19日]] - [[1988年]][[4月1日]])は日本の[[小説家]]。
[[ 農夫福岡県]] [[小倉市]]大阪町出身。大分県立豊津中学校(現大分県立豊津高等学校)卒業。上京し植村正久の神学者神学校に入学するも中退し北海道へ渡る。農夫、馬車曳き、 [[職工 ]]などで全国を渡り歩き、[[葉山嘉樹]]のもとで名古屋市で労働組合運動に挺身、[[山川均]]らに感化された民主主義運動に加わ り、敗る。終戦後には 日本社会党に入党し、日本農民文学会また社会主義文学クラブなどの発足に尽力した。 ▼
小説家 1902.2.19 - 1988.4.1
▲[[農夫]]、馬車曳き、[[職工]]などで全国を渡り歩き、[[葉山嘉樹]]のもとで名古屋市で労働組合運動に挺身、[[山川均]]らに感化された民主主義運動に加わり、敗戦後には日本農民文学会また社会主義文学クラブなどの発足に尽力した。
「コシヤマイン記」で第三回[[芥川賞]]受賞。叙事詩風の作風をとりながら、資本と労働との激しいせめぎあいを体験してきた作者の、悲痛なまでの思い入れが切ない。
1902年(明治35年)、福岡県[[小倉市]]大阪町にうまれる。
1908年(明治41年)7歳 母方の叔父の家に養子に行く。
1910年(大正9年)19歳 福岡県立豊津中学校を卒業。
上京し、植村正久の神学社神学校に入学。しかし信仰上の疑惑から中途退学、北海道へ行く。
1923年(大正12年)22歳 名古屋へ行く。労働組合運動に従事するも、第一次[[無産政党]]事件の後、各地を転々。 .
1927年(昭和2年)26歳 「文藝戦線」同人となる。
10月「子守娘が紳士を殴つた」、12月「なかま」
1928年(昭和3年)27歳
1月「海鳴り」、3月「牧場追放」「闇の怒」
6月「牧場を逐はれて」、9月「シベリアから返つて來た手紙」を発表。
1929年(昭和4年)28歳
2月「新しき空」、9月「夏」
1930年(昭和5年)29歳
2月「牡牛と故郷」、7月「インテリゲンチャ」
1931年(昭和6年)30歳
2月「石」、9月「幸福」
1932年(昭和7年)31歳
7月、「或農夫の話」、9月「ユカベーカの話」
1933年(昭和8年)32歳
3月「源さん一家」、9月「ペンケル物語」
1934年(昭和9年)33歳
3月「霧の農場」
1936年(昭和11年)35歳
2月「コシヤマイン記」、(芥川賞受賞)
1937(昭和12年)36歳
1月「T農場の人々」「ピンニラ物語」2月「僕達と志摩氏」、
5月「土塀の中」「牡鹿の崖」、11月「摩周湖」
1938年(昭和十三年)37歳
7月、芥川賞全集第三巻『コシヤマイン記』を「新陽社」より刊行。
1939年(昭和14年)38歳
小説集『北邊記』『わが悪霊』『若き日』。
1940年(昭和15年)39歳
飜訳、『北京の日』林語堂原著
1945年(昭和20年)44歳
終戦後日本社曾党に入党し、主として農民問題に専心従事する。
[[Category:日本の小説家|つるた ともや]]
1955年(昭和30)54歳
[[Category:芥川賞受賞者|つるた ともや]]
「ハツタラはわが故郷」(小學六年生)にて児童文学賞受賞。
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