「城井朝房」の版間の差分

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父と同じく、当初は[[大友氏]]に属していたが、[[耳川の戦い]]で[[大友氏]]が衰退すると[[島津氏]]に属し、
1586年の[[高橋紹運]]の守る[[岩屋城]]攻めにも、島津方として従軍している。
[[天正]]15年([[1587年]])、[[豊臣秀吉]]による[[九州征伐]]が始まると、父の命で島津方から豊臣軍に属し、[[秋月氏]]の守る[[岩石城]]攻めに先陣として加わり、僅かな手勢しか率いていなかったにも関わらず活躍した為、戦後、秀吉から[[伊予国|伊予]]に移封(当時の城井氏の禄高は実質3万石程度と言われ、石高的には加増転封)することで所領を与えられたが、朝房は父と共に[[豊前国|豊前]]における所領を希望して辞退する。そして同年秋から父と共に新たに豊前に入った[[黒田孝高]](黒田官兵衛、如水)・[[黒田長政]]父子と抗争する。朝房らは善戦し、業を煮やした孝高は、朝房の妹を長政の正室として迎えることで一旦は和睦した。
 
天正16年(1588年)、朝房は和睦の条件の一つとして、[[肥後国|肥後]]で起こった国人一揆の鎮圧を孝高から命じられて出兵するが、その間に父は孝高によって殺された。その直後、肥後国木の葉で、孝高が送り出した刺客によって[[暗殺]]されてしまったのである。惨状を知った[[加藤清正]]は同地に宇都宮神社を建立して霊を慰めた。