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Melckebeke (会話 | 投稿記録)
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随国公・楊堅(のちの隋の文帝)は北周の実権を握ると、高熲が有能で誠実であり、計略に優れていることから、彼を自らの幕下に招き入れ、相府司録として重用した。[[580年]]、[[尉遅迥]]が[[ギョウ|鄴]]で反乱を起こすと、楊堅は[[韋孝寛]]を総大将として討伐に向かわせたが、諸将の意見が一致せず、軍は河陽に至ると沁水をはさんで敵と対峙したまま進軍しなかった。高熲は自ら願い出て軍中に赴くと、沁水に橋を架けさせて川を渡り、敵軍を大いに打ち破った。鄴に進軍し尉遅迥と交戦し、宇文忻・李詢らとともに策を設けてこれを打ち破り、乱を平定することに成功した。帰還すると柱国に位が進んで義寧県公に改封され、[[相国]][[司馬]]となった。
 
[[581年]]([[開皇]]元年)、隋が建国されると、高熲は[[僕射|尚書左僕射]]・[[侍中|納言]]となり、渤海郡公に改封され、しばらくして左衛大将軍を加えられた。新都大監を兼ねて新都・[[長安|大興城]]の建設を司り、制度の多くは彼によって出された。さらに左領軍大将軍を加えられた。母の死により職を去るが、詔勅によりすぐ呼び戻された。
 
[[582年]]、長孫覧・元景山らを指揮して南朝の[[陳 (南朝)|陳]]を討つが、陳の[[宣帝 (陳)|宣帝]]が死去したため、喪中にある敵を攻撃することは非礼であるとし、兵を撤退させた。文帝に陳攻略の策を問われると、江南の収穫期に攻撃する振りを繰り替えして敵を疲労させ、さらに攻撃の振りを繰り返すことによって相手を油断させること、また密かに工作員を派遣して糧食の備蓄を焼き討ちすることを進言した。文帝がこの策を実行すると、陳の財力は大きく疲弊した。[[588年]]、晋王楊広(後の煬帝)を総大将として陳平定の兵が起こると、高熲は元帥長史として楊広を補佐し、全軍の指示はすべて彼の判断に任された。翌[[589年]]、陳の首都である[[建康 (都城)|建康]]を陥落させ、皇帝の[[後主 (陳)|後主]]を捕らえ、陳を滅ぼすことに成功した。功績により上柱国に進み、斉国公に爵位を上げられた。この時、楊広は後主の寵姫である張麗華を自分のもとに納めようとしたが、高熲は「([[周]]の)[[武王 (周)|武王]]は[[殷]]を滅ぼすと、[[妲己]]を殺しました。いま陳を平定し、張麗華を手に入れるわけにはいきません」と言い、兵に命じて張麗華を斬らせた。このことから楊広は高熲を憎むようになった。
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[[Category:隋代の人物]]
[[Category:607年没]]
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[[en:Gao Jiong]]