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|祭神='''所在地'''に同じ
|社格=式内社(名神大)・出羽国一宮・国幣中社・別表神社
|創建=伝<br />[[景行天皇]]または[[欽明天皇]]
|本殿=
|別名=
[[越国]]より始められた夷征は、[[慶雲]]から[[和銅]]の頃に[[庄内地方|庄内]]以北の着手に至ったが、当時この地方は原生林に覆われ、また南方を追われた[[蝦夷]]が群居し、常に噴煙を吐く[[鳥海山]]が時々大爆発する状況は夷征に着手した朝廷軍にとって戦慄すべきものであった。日本において[[山岳信仰]]は盛んであったが、前述の状況から、朝廷は鳥海山の爆発が夷乱と相関していると疑うに至ったのではないか、と『名勝鳥海山』<ref name="choukai">安斎 徹・橋本賢助・阿部正巳 『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』 国書刊行会 1982年11月 より。</ref>では推測している。
前述の『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条にある[[出羽国|出羽]][[国司]]からの報告には、さらに以下の記述がある。
《4月8日に噴火があり、土石を焼き、雷鳴のような声を上げた。山中より流れ出る河は青黒く色付いて泥水が溢れ、耐え難いほどの臭気が充満している。死んだ魚で河は塞がり、長さ10[[丈]](約30m)の大蛇2匹が相連なって海へ流れていった。それに伴う小蛇は数知れずである。河の緑の苗は流れ損ずるものが多く、中には濁った水に浮いているものもある。古老に尋ねたところ、未曾有の異変であるが、[[弘仁]]年間に噴火した際は幾ばくもせず戦乱があった、とのことであった。そこで報告を受けた朝廷が[[陰陽寮]]にて占いを行ったところ、結果は全て、出羽の名神に祈祷したが後の報祭を怠り、また墓の骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こったのだ。もし鎮謝報祭を行わなければ戦乱が起こる、と言うものであった。そこで奉賽を行うと共に神田を汚している家墓骸骨を除去せよと国守に命じた。》<br />
この記述は鳥海山噴火が兵乱の前兆であると信じられていたことを覗わせている、と『名勝鳥海山』<ref name="choukai" />では述べている。
[[鳥海山]]の噴火は[[大物忌神]]の神威の表れとされ、噴火のたびに朝廷より[[神階]]の陞叙が行われた。『[[続日本後紀]]』[[承和 (日本)|承和]]5年([[838年]])5月11日の条において[[従五位|従五位上]]であった大物忌神を[[正五位|正五位下]]に1級進めていることから、これ以前に神階の授位があったことは明らかであるが、文献上の記録が無いため最初の授位がいつかは不明である。以下は時系列的に並べた神階の授与である。
===神仏習合===
[[六国史]]によれば[[斉衡]]3年([[856年]])から[[貞観 (日本)|貞観]]12年([[870年]])の間に出羽国では[[定額寺]]が6
===出羽国一宮===
[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])には『[[延喜式神名帳]]』により式内社、[[名神大社|名神大]]とされた。また、『[[延喜式]]』の「主税式」においても祭祀料2,000束を国家から受けている。『延喜主税式』によれば、当時国家の正税から祭祀料を受けていたのは[[陸奥国]][[鹽竈神社]]、[[伊豆国]][[三嶋大社|三島社]]、[[淡路国]]大和大国魂社と他に3社しかないことから、大物忌神社が国家から特別の扱いを受けていたことが覗える。
当神社は[[出羽国]][[一宮]]とされ、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[正平 (日本)|正平]]13年([[北朝 (日本)|北朝]]の元号では[[延文]]3年、[[1358年]])、[[南朝 (日本)|南朝]]の[[陸奥守]]兼[[鎮守府将軍]]である[[北畠顕信]]が南朝復興と出羽国静謐を祈願した寄進書<ref>吹浦口之宮 所蔵 (国の[[
===一宮争い===
鳥海山の登山口は、主要なものだけで矢島、小滝、吹浦、蕨岡の4ヶ所 (後掲の [[#鳥海修験の拠点|鳥海修験の拠点]] も参照のこと。) があり、各登山口には大物忌神へ奉仕する宗徒社人が集って、連綿とした事由から互いに反目競争するに至っていたが、ついには[[庄内藩]]や[[江戸幕府]]の裁決を仰ぐことが少なからず起こるようになった。以下、そのいくつかを上げる。
:吹浦の宗徒社人は山上の大物忌神を吹浦に[[遷宮|遷座]]したと説くと共に月山神を[[分霊|勧請]]し、両所宮と称して[[神宮寺]]の創建より隆盛を来たしていた。これに対し蕨岡の宗徒社人は山上の鳥海山大権現の学頭[[別当]]と称し、直接山上に奉仕していた。この考え方の違いがお互いに反目する原因となっていたが、蕨岡宗徒が吹浦からの登山者を差し止めたことから両者の論争となり、[[承応]]3年([[1654年]])ついに庄内藩や江戸[[寺社奉行]]に訴えが出された。幕府検使の臨検の後、[[明暦]]元年(1655年)に次の判決が出た。
:#訴えのあった[[神札|守札]]の書付について、吹浦は鳥海山と書いていた証拠が無いので両所山と書き、蕨岡は大堂のある松岳山と書いていた証拠があるので松岳山と書くこと。
:この裁断の後、山上に直接奉仕しているのは蕨岡宗徒であると言う認識が確定的なものとなり、山頂社殿の建替や嶺境争い等の山頂に関連した論争に吹浦は感知しない状態となってしまった。
:[[修験道]]には[[紀伊国|紀伊]]の[[熊野三山|熊野]]に始まった順峰と逆峰の2つの法式があるが、鳥海山においては蕨岡が順峰、矢島と滝沢が逆峰を称し、古来より順逆両部勤行の霊山として修行が行われていた。それにもかかわらず、矢島と滝沢の間に逆峰名称の論争が起き、また蕨岡と矢島の間には順逆の論争が発生した。この状況により滝沢は蕨岡の援助を得て逆峰院主を矢島から奪ったが、[[延宝]]6年([[1678年]])矢島は論争のすえ逆峰院主を取り戻した。これにより矢島と滝沢の逆峰院主の論争は終結し、また蕨岡と矢島も順逆お互いの法式を相犯さないと確認した。しかし[[元禄]]14年([[1701年]])山頂社殿建替えの話が上がると、矢島は逆峰側で建替えるのが至当であると、本山である[[三宝院]]に総代3名を送って陳訴した。これに対し三宝院は順逆両方で申し合わせのうえ相勤めよとの和解書を蕨岡へ出したが、これまで一山を取り仕切り、山頂社殿を建替えてきた蕨岡はこれを不服として三宝院へ訴状を出した。その後、順逆双方から書類を出し、同年11月に三宝院[[鳳閣寺]]より次の裁断が下された。
:#山頂社殿を順逆宗徒が交互に造営する理由は見当たらないので、これまで通り順峰側が建替えること。
:この裁断により一旦は息を潜めたかに見えた順逆の論争であるが、山頂社殿建替後の遷宮式において矢島の群衆が棟札を奪い取る事件が発生し、再燃することとなる。
:建替え論争に破れた矢島宗徒は、[[三宝院]]が「嶺境は行政の領分なので後日申し立てること」としたことを以って嶺境の訴訟を起こした。しかしながら嶺境問題は宗徒間のみならず[[庄内藩]]と[[矢島藩]]にとっても重大問題であることから、最後は両藩が相争う状態となって行く。[[元禄]]16年([[1703年]]) 三宝院[[鳳閣寺]]はこれまでの建替論争の経過に付帯文書を添え、さらにその顛末を述べて[[江戸幕府|幕府]][[寺社奉行|寺社奉行所]]に裁決を出願した。寺社奉行所では審理の末、事の容易ならざることを察し、嶺境は不明だが『[[日本三代実録]]』に大物忌神社が飽海郡山上にあることが明記されているので、棟札は飽海郡と書くのを妥当とし、嶺境は不問とするよう裁決を出した。この裁決に矢島宗徒は従わず、それに加え、この問題が重大な国境問題となる矢島藩が領内百姓の名を以って寺社奉行に訴え出た。ここに至り寺社奉行はこの問題を重大事と判断して[[評定所]]の審理に移した。評定所は庄内の修験百姓に答弁書提出を命じ、翌[[宝永]]元年([[1704年]])庄内修験百姓等は答弁書を提出した。これに対し矢島宗徒は吹浦宗徒の主張を利用し、大物忌神社は吹浦に[[遷宮|遷座]]しており現在の山頂社殿は由利郡に属するものであると主張、追訴した。評定所は原告被告の双方を時々呼び出し取調べに着手したが、現地を検分しないことには地形的関係が把握できず審理を進められないと判断し、現地に検使を派遣して検分と共に聞き取り調査を行った。検使は江戸へ帰ると鳥海山の模型を作り、評定所はこの模型とその他の調査結果を基に審理を行い、かつ双方の修験百姓を江戸に呼び出し吟味した。その結果、同年9月次の判決を言い渡した。
:#『日本三代実録』の記述どおり山頂社殿を大物忌神社とし、山頂社殿の所在する場所は飽海郡とする。<ref>『鳥海山史』では、『日本三代実録』の誤読を蕨岡が強引に根拠とし、主張を行ったと述べている。すなわち『日本三代実録』貞観13年5月16日の条は「'''従三位勳五等大物忌神社在飽海郡山上。巖石壁立。'''」(従三位勳五等大物忌神社は飽海郡の山上に在り。巖石が壁立し。)ではなく「'''従三位勳五等大物忌神社在飽海郡。山上巖石壁立。'''」(従三位勳五等大物忌神社は飽海郡に在り。山上は巖石が壁立し。)が正しい読み方であり、大物忌神社は山頂を遥拝できる平地にあったので、山頂は飽海郡では無いと考察している。姉崎岩蔵 『鳥海山史』 ㈱国書刊行会 1983年12月 より。ちなみに『國史大系 第4巻 日本三代実録』では、貞観13年5月16日の条に「'''従三位勳五等大物忌神社在飽海郡山上。巖石壁立。'''」と句読点を付している。</ref>
:これにより、由利郡側山腹(秋田側山腹)の7合目より以南が飽海郡になった。 また、この判決に関し、いくつかのいざこざが庄内藩と矢島藩の間に起こったと言われる。
:[[宝永]]元年([[1704年]])の[[評定所]]の判決以降、山上に直接奉仕しているのは蕨岡宗徒であると強く認識されるようになり、その勢力は増して行った。勢力の増大により、蕨岡宗徒は山頂社殿を[[出羽国]][[一宮]]大物忌神社、蕨岡を鳥海山表口[[別当]]、吹浦を[[摂末社|末社]]と称するに至り、吹浦大物忌神社は全く蕨岡に奪われたも同然の状態となってしまった。宝永4年([[1707年]])[[社家]]の進藤曾太夫邦實はこれを嘆き、回復を計らんとして一宮の名号を吹浦に許されることを[[庄内藩]]に訴願した。鶴岡の寺社奉行が吟味した結果、太夫の訴願は[[江戸幕府|幕府]]の嶺境裁断において山頂社殿を大物忌神社とした際の判決を戻すとして、「公義御裁許破り」の罪名で太夫を出羽一国追放にした。
|祭神=[[大物忌神]]
|社格=式内社(名神大)・出羽国一宮・国幣中社・別表神社
|創建=伝<br />[[景行天皇]]または[[欽明天皇]]
|本殿=
|別名=
|祭神=[[大物忌神]]、[[ツクヨミ|月読命]]
|社格=式内社(名神大)・出羽国一宮・国幣中社・別表神社
|創建=伝<br />[[景行天皇]]または[[欽明天皇]]
|本殿=
|別名=
|祭神=[[大物忌神]]
|社格=式内社(名神大)・出羽国一宮・国幣中社・別表神社
|創建=伝<br />[[景行天皇]]または[[欽明天皇]]
|本殿=
|別名=
*4月8日 [[祈年祭]] (吹浦口之宮)
*5月3日 蕨岡口之宮[[例大祭]] 蕨岡延年奉納
*5月4日 吹浦口之宮
*5月5日 吹浦口之宮
*7月1日 鳥海山夏山開祭 (吹浦口之宮)
*7月14日 鳥海山火合せ神事 (山頂、御浜、西浜、[[小物忌神社#小物忌神社 (酒田市飛島)|飛鳥]]、宮海など)
*7月15日 月山神社祭 (玉酒神事)
*11月8日 [[新嘗祭]] (吹浦口之宮)
*11月9日
*11月12日
== 文化財 ==
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