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[[ファイル:Faisal hussein.jpg|thumb|left|連邦結成の条約調印式に臨むイラク国王[[ファイサル2世 (イラク王)|ファイサル2世]]とヨルダン国王[[フセイン1世]]]]
'''アラブ連邦'''(アラブれんぽう、{{Lang-ar|الاتحاد العربي}})は、[[1958年]]に存在した[[連邦|連邦国家]]である。この年のはじめ、[[エジプト]]と[[シリア]]が[[汎アラブ主義]]に基づき[[アラブ連合共和国]]として統合したため、間に挟まれた[[ハーシム家]]の君主国[[ヨルダン|ヨルダン王国]]は圧迫され王政打倒の脅威にさらされた。危機感を抱いたヨルダン王国は同じハーシム家の君主国[[イラク王国]]とともにアラブ連邦を構成したが、[[:en:14 July Revolution|7月14日革命]]でイラク王国が倒されたことにより、約半年で崩壊した
 
[[パレスチナ戦争]]におけるアラブ連合軍の敗北で軍将校らはアラブ諸王政が敗北の原因と考えるようになり[[1952年]]に[[エジプト王国]]が[[自由将校団]]により共和制に移行。さらに[[スエズ戦争]]におけるエジプトの成功に他のアラブ諸国の軍も感化され、王政打倒の風潮が蔓延し、エジプトもこれを助長しようと宣伝に尽力する。
 
[[1957年]]にはまず、[[ハーシム家]]の君主国の[[ヨルダン|ヨルダン王国]]においてクーデターが発生するが、なんとか切り抜ける。さらに1958年のはじめ、[[エジプト]]と[[シリア]]が[[汎アラブ主義]]に基づき[[アラブ連合共和国]]として統合したため間に挟まれ危機感を抱いたヨルダン王国は同じハーシム家の君主国[[イラク王国]]とともにアラブ連邦を構成し、連邦元首にイラク王ファイサル2世が就任。
 
 
ところが[[:en:14 July Revolution|7月14日革命]]でイラク王国が倒されたことにより、約半年で崩壊した。
 
== 外部リンク ==