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[[ファイル:Capitoline Brutus Musei Capitolini MC1183.jpg|200px|thumb|right|ブルトゥスの胸像([[カピトリーノ美術館]])]]
'''ルキウス・ユニウス・ブルトゥス'''(Lucius([[ラテン語]]:'''Lucius Iunius Brutus)Brutus''')は、[[共和政ローマ]]の実質的な設立者。[[紀元前509年]]、第7代ローマ王[[タルクィニウス・スペルブス]]を追放して共和政を布き、初代[[執政官]](コンスル]]として)に就任した。
 
==経歴==
ブルトゥス家はタルクィニウス王家に対して憎悪を抱いており、[[元老院 (ローマ)|元老院]]で強力な指導力を発揮し始めたルキウスの兄弟が殺害されるなど深刻な対立関係にあった。王家による危険分子への粛清の嵐が吹き荒れる状況の中、ルキウスはわざと愚鈍な人間を装い、王家の粛清を逃れる事に成功した。国王タルクィニウスはルキウスを無能だと侮り、彼なら自分の王位への脅威にはならないと判断して自らの側近に取り立てた。彼の名「ブルトゥス」は「阿呆」の意味であり、これは彼がいかに軽く見られていたかを物語っている。
 
王の信任を得たルキウスは王の息子の人間と[[ギリシア]]の[[デルポイ|デルフィ]]に神託を伺いに赴いたり、殊にデルフィの神託の折、タルクィニウスの息子は「次の王は誰になるか?」というお伺いを立ててみたところ、母なるものに接吻するもの」と返ってきた。「母なるもの」を「大地」と解釈してブルトゥスはおもむろにかじづいて地面に接吻したと言う。そしてローマに戻ると周辺の部族の制圧のため軍を率いて出征し、ローマを離れることが多かったという。
 
ルキウスがローマから離れていた間に、近親の既婚女性[[ルクレティア]]がタルクィニウスの息子セクストゥスに[[強姦|暴行]]され、辱めを受けたルクレティアが自らの胸を短刀で貫いて自死するという事件が起きた。伝説では、この報を聞いたルキウスが息絶えたルクレティアの胸に刺さった小刀を手に取り、「ただちにタルクィニウスの一族を追放させよ」とローマの民衆を煽動したと伝えられている。
 
ルキウスはすぐさま国王タルクィニウスとその一族を[[エトルリア]]へと追放させることに成功し、以後は王を置かずに、本来は王の諮問機関であった[[元老院 (ローマ)|元老院]]に政務を担わせることとし、元老院の代表として2人の定員で「[[プラエトル]]」という役職を設置<ref>当時のプラエトルは共和政ローマの最高の地位にあった。のちにプラエトルの職務は[[コンスル]]に代わられるようになる。</ref>、亡きルクレティアの夫[[ルキウス・タルキニウス・コッラティヌス]]と共に自ら就任した。
 
その後、亡命した国王タルクィニウスが他の[[エトルリア人]]勢力と同盟を結んでローマに侵攻、またローマ内でも王政復古を画策する王党派の陰謀が明るみに出るなど受難が続くが、ルキウスは陰謀に加担していた自分の息子[[ティトゥス・ユニウス・ブルトゥス|ティトゥス]]を容赦無く処刑するなど断固とした態度で挑み、共和制維持のために尽力した。また防戦のため、自ら軍を率いて出征を重ねるも、その途上で戦死したと言われている。
 
死後も共和政ローマの象徴として見做され、[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]が王位への野心を露にしたときには、ルキウスの像に「ブルトゥスは最初の執政官となって王を追放したのに、こいつ(カエサル)はコンスルを追放して、ついに我々の王位に上り詰めた」と書かれたと伝わっている<ref>[[ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス|スエトニウス]]「皇帝伝」カエサル [[wikisource:The_Lives_of_the_Twelve_Caesars/Julius_Caesar#80|80]]他</ref>。
 
==脚注==
<references />
 
{{Commons|Lucius Junius Brutus}}
{{DEFAULTSORT:ゆにうす ふるうとうす るきうす}}
[[category:共和政ローマの人物]]