「草加宿」の版間の差分

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 当時千住~越ケ谷間には宿場が無かったが、このルートが完成すると街道沿いに茶店や旅籠屋など旅人相手の商いを目指す人々が集るようになり、ついに寛永7年(1630年)、草加は千住宿に次ぐ2番目の宿、千住宿と越ケ谷宿の「間(あい)の宿」として取り立てられることになった。
 
=== 宿場の特徴 ===
 開宿当初、戸数84戸、長さ685間、伝馬人足25人、駅馬25頭と小規模であったが、徐々に人口が増え、正徳3年(1713年)、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられると五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心としても繁栄するようになった。
 
 このころから享保年間(1716~1736)にかけて急速に発達し、1843(天保14)年調査の『宿村大概帳』によると、南北12町(約1.3km)の規模となり、本陣・脇本陣各1軒、旅籠屋67軒(大2、中30、小35)となっていた。これは、日光道中の城下町である宇都宮と古河を除けば、千住、越ヶ谷、幸手に次ぐ規模である。
 
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