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'''源 公忠'''(みなもと の きんただ、[[寛平]]元年([[889年]])- [[天暦]]2年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]([[948年]][[12月7日]]))は、[[平安時代]]中期の[[官人]]・[[歌人]]。父は[[光孝天皇]]の孫。[[大蔵省|大蔵卿]]・[[源国紀]]<ref>読みは、みなもと くにのり</ref>のに公忠と同じく三十六歌仙の一人である。官位は[[源信明従四位|従四位下]]・[[弁官|右大弁]](みなもとのさねあきら)がいる。[[三十六歌仙]]の一人。滋野井と号す
 
[[延喜]]13年([[913年]])[[掃部寮|掃部助]]。延喜18年([[918年]])[[醍醐天皇]]の[[蔵人]](六位蔵人)。翌延喜19年([[919年]])[[近江国|近江]][[掾|大掾]]を兼ねる。[[延長 (元号)|延長]]6年([[928年]])五位蔵人。延長8年([[930年]])醍醐天皇の崩御に伴い蔵人を辞任するが、[[朱雀天皇]]の即位後、再び蔵人に任ぜられる。[[承平]]7年([[937年]])子の[[源信明|信明]]を六位蔵人に任官させるため、蔵人を辞する。[[天慶]]4年([[941年]])近江守として任国へ下向した。
[[醍醐天皇]]・[[朱雀天皇]]の下で[[蔵人]]をつとめ、その後[[従四位下]][[右大弁]]に至った。[[歌合]]や屏風歌で活躍し、[[紀貫之]]からは辞世の歌を贈られた。[[香道]]や[[鷹狩]]に優れていた。「[[大和物語]]」・「[[大鏡]]」に逸話が残されている。
 
[[歌合]]や屏風歌で活躍し、[[紀貫之]]からは辞世の歌を贈られた。『[[後拾遺和歌集]]』以下の[[勅撰和歌集]]に21首が入集。家集に『公忠集』がある。また、[[香道]]や[[鷹狩]]に優れていた。
 
== 逸話 ==
公忠は鷹狩りの名人で、『大鏡』<ref>『大鏡』第6巻,4段</ref>に以下の逸話がある。
*公忠は公務の間、予め馬をどこかに繋いでおき、公務が終わると毎日のように鷹狩りに出かけていた。また、久世の雉とと交野の雉の味の違いを識別できるとの話があったので、ある人が両方の雉を混ぜて料理し、目印を付けて献上したところ、公忠はそれぞれの雉を味わい分けたという。
 
ほかにも『[[大和物語]]』・『[[宇治拾遺物語]]』・『[[江談抄]]』に逸話が残されている。
 
== 系譜 ==
*父:[[源国紀]]
*母:不詳
*妻:不詳
**男子:[[源信明]](910-970)
**男子:源宏平
**男子:源信孝
**男子:観教(又は信孝の子<ref>『僧綱補任』『和歌色葉集作者部類』</ref>)
**男子:澄観
**男子:勝観
**男子:寛祐
**男子:慈慶(又は滋慶)
**女子:[[源雅信]]室
 
== 脚注 ==
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「[[後拾遺和歌集]]」以下の[[勅撰和歌集]]に入集。家集に「公忠集」がある。
 
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