「土方雄久」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
3行目:
はじめ[[織田信長]]、そしてその次男・[[織田信雄]]に仕えた。信長のもとでは[[伊賀国]]平定で功を挙げ、[[1584年]]の[[小牧・長久手の戦い]]では信雄軍の一員として活躍した。これらの功績から、信雄より[[尾張国]]犬山に4万5000石の所領を与えられた。[[1590年]]、信雄が改易された後、[[豊臣秀吉]]の家臣として仕え、1万石の所領を与えられた。
 
[[1598年]]、秀吉が死去した後は[[豊臣秀頼]]に仕えたが、[[1599年]]の[[徳川家康]]と[[本多正信]]主従が企んだ「幻の家康暗殺計画」で、家康の暗殺を企んだとして改易され、[[大野治長]]と共にその身柄を[[常陸国]]の[[佐竹義宣]]に預けられた。[[1600年]]、[[関ヶ原の戦い]]前の会津遠征で治長と共にその罪を許されて家康に仕え、従兄弟の前田利長を東軍へ勧誘する使者を務めた功により、同年[[越中国]]野々市([[富山市]]布市)に1万石の所領を与えられた([[布市藩]])。のち越中の所領は[[能登国]]内散在所領1万石(実高1万3000石)に替地され、[[下総国]]田子に5000石が加増された。
晩年は[[徳川秀忠]]の伽衆となった。
1608年、56歳で死去した。過多な喫煙による咽頭の病気が原因と伝える。法号は功運院建忠(『大日本史料』土方雄久卒伝)。嫡男雄氏は既に伊勢国菰野藩1万3000石を得ていたため、雄久の遺領は徳川秀忠の近習だった雄重が継承した。