「貞明皇后」の版間の差分

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[[明治]]17年([[1884年]])[[6月25日]]、旧[[摂家]]、[[公爵]] [[九条道孝]]の四女として出生。母は野間幾子。
 
学齢まで[[高円寺]](現:[[杉並区]])近郊の農家の家に里子に出され、“九条の黒姫様”と呼ばれるほど逞しく育った。彼女が健康であることは、病弱な嘉仁親王(大正天皇)の妃となる大きな決め手にもなったようである。
 
=== 皇太子妃時代 ===
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天皇の死後、貞明皇后は日課の如く、午前中の大部分を大正天皇の遺影を安置した部屋で過ごし、「生ける人に仕えるよう」な有様だったという。また、孫にあたる昭和天皇の皇子女・三笠宮の子女を可愛がったと言う。
 
昭和6年([[1931年]])、貞明皇后からの下賜金をもとに「[[癩予防協会]]」が設立された。彼女の誕生日の前後が「癩予防デー」となった<ref>出雲井晶『天の声 小説・貞明皇后と光田健輔』に詳しい</ref>。なお現在は「ハンセン病を正しく理解する週間」と改称されている。皇太后の経済支援により生活が救済された患者もいる一方、「予防」のための強制隔離が正当化された面も否めない。また、このような活動が皇太后の真意に関わらず「皇恩」「仁慈」として、その後も政治利用された側面もある。
 
昭和26年([[1951年]])[[5月17日]]、[[狭心症]]のため[[崩御]]。[[享年]]66。[[皇太子妃]]時代に[[腸チフス]]に罹った以外は特に大病に罹らず健康であり、この日も恒例の勤労奉仕団への会釈(挨拶)を行なう予定だったが、その準備をしている時に発作を起こし急逝([[崩御]])。なお昭和天皇は当日進講を受けており、一報を聞きしばらく言葉が無かった。
 
[[ファイル:Funeral of Empress Teimei.JPG|thumb|350px|left|貞明皇后大喪]]
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しかし皇后の愛情は、次男の秩父宮に傾きがちであったと囁かれる。彼女と宮の誕生日は同じであり、そのことから皇后は強い縁を感じていたとも言われる。上記の[[秩父宮]]の婚姻に関しても、[[妃]]に[[朝敵]]・[[松平容保]]の[[孫]]でなおかつ[[平民]]である勢津子を強く推したのは貞明皇后で、勢津子との[[婚姻]]が成立したのも皇后の意向が大きく働いた結果であったと言われる(河原敏明の著書より)。
== 逸話 ==
生涯に渡って数多くの[[和歌]]を残す一方、夫・[[大正天皇]]の影響からか[[漢詩]]にも取り組んだ<ref>西川泰彦 『貞明皇后その御歌と御詩の世界 貞明皇后御集拝読』([[錦正社]]、2007年)を参照</ref>。 
 
[[ハンナ・リデル]]のハンセン病病院回春病院を援助されていたが、後にハンセン病全体に関心をもたれ、らい予防協会ができ、皇后の没後寄贈され基金をもとに藤楓協会というハンセン病援護団体の設立となった。
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== 参考文献 ==
* [[三笠宮崇仁]]・[[三笠宮]]百合子述、工藤美代子編著『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』[[中央公論新社]]、2007年  
* [[工藤美代子]] 『国母の気品 貞明皇后の生涯』 [[清流出版]]、2008年
* 西川泰彦『貞明皇后その御歌と御詩の世界 「貞明皇后御集」拝読』 [[錦正社]]、2007年
* 筧素彦 『今上陛下〔[[昭和天皇]]〕と母宮貞明皇后』[[日本教文社]]、1987年 序文[[徳川義寛]]
* [[福田清人]]・[[木俣修]]ほか編著 『貞明皇后』 [[主婦の友社]] 1971年、序文[[入江相政]] [[伝記]]と歌集
* [[出雲井晶]] 『天の声 小説・貞明皇后と[[光田健輔]]』 [[展転社]] 1992年