「レバノン内戦」の版間の差分

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歴史的に[[キリスト教徒]]の多いレバノンは、[[第一次世界大戦]]、[[第二次世界大戦]]を経て周辺[[アラブ]]国が独立すると中東では数少ないキリスト教徒が中心の国家となった。元来のレバノンの領域は「小レバノン」と呼ばれ、これは[[オスマン・トルコ帝国]]時代にこの地を支配した[[ドゥルーズ派|ドルーズ派]]の領主(エミール)[[ファハル・アッディーン]]の支配地を根拠とする。長らくこの地域こそが真のレバノンとされたが、[[第一次世界大戦]]後、事実上の宗主国となったフランスは元来のレバノン領域(小レバノン)を大幅に越えて、「大レバノン」と呼ばれる元来シリア領域とされるベッカー高原、レバノン北部及びトリポリ市、レバノン南部をも含めて国境線を作成した。これはマロン派を含めたレバノン独立運動を阻止させたいフランスの分断政策の一つであった。この事がレバノン内戦を誘引する根本的な理由となった。
 
こうした理由から、レバノンという国家そのものが人工的なものであり、宗派別で国民・国家の意識の濃淡が激しかった。具体的に言えば、独立運動を牽引したのは[[マロン派|キリスト教マロン派]](以下、マロン派)と[[ドゥルーズ派|イスラム教ドルーズ派]](以下、ドルーズ派)であり、この両派はレバノンに対する帰属意識が高いといわれる。一方、[[スンナ派|イスラム教スンニ派]](以下、スンニ派)や[[シーア派|同シーア派]](以下、シーア派)、[[ギリシャ正教|ギリシャ正教徒]]はもともと小レバノンには少なく、大レバノンに多く住んでいた。彼らの生活圏は元来シリアであり、ベイルートよりもダマスカスの方に帰属意識が強かったとされる。これらに対して、比較的最近になって移住してきた[[アルメニア人]]は内戦に積極的には関わらず、中立の姿勢を貫いていた
 
しかも、こうした宗派はレバノン国内では圧倒的な多数派を形成せず、いずれもがほぼ同じ配分で存在する宗派社会であった。政治的影響を懸念して、レバノンでは過去に2回しか[[国勢調査]]が行われず、フランス統治時代の[[第二次世界大戦]]中に食糧配給のために調査したものは非公開、公開がなされたのは1932年の調査のみであり、これはキリスト教6:イスラム教5という比率であった。この時の国勢を根拠として独立時に「国民協約」と呼ばれる[[紳士協定]]が結ばれた。これは大統領はキリスト教徒、首相はイスラム教スンニ派、国会議長は同シーア派……というように宗派ごとの閣僚・議席のポストを配分したものであった。これは不文協定であり、暫定的であって国勢調査に基づいて変動が行われるという条件であったが、実際に国勢調査は行われず、イスラム教徒の増加を無視する形でこの「国民協約」に則った国家運営が続けられた。この事が、不利な立場を強いられるイスラム教徒の反発を買った。