「羽柴氏」の版間の差分

信長が本能寺で横死し、秀吉が代わって天下人の座に就くと、秀吉の発給する文書はその地位の向上にともなって必然的に尊大化・薄礼化し、あるいは[[奉書]]にとって代わられ、[[直状]]も単に「秀吉」とのみ署名したもの、花押のみ署したもの、印判のみ押したものなどで占められ、羽柴の名字の使用例は見られなくなる。[[天正]]13年([[1585年]])10月13日付の[[遠藤基信]]宛書状に「羽柴筑前守」と署名したのが「羽柴」の名字の最後の使用例である([[山鹿素行]]『[[武家事紀]]巻第31』<ref name="a">三鬼清一郎 『豊臣秀吉文書目録』 名古屋大学文学部国史学研究室、1989年。</ref>)。
 
一方で、秀吉は、近親者以外への羽柴の名字の授与を開始する。その最初の例は、[[天正]]10年([[1582年]])10月の[[堀秀政]](「神照寺文書」<ref name="b">黒田基樹 「慶長期大名の氏姓と官位」 『日本史研究』414号 日本史研究会、1997年。</ref>)である。その後、旧主信長の遺族、織田家において秀吉の同僚であった大名、あるいは天下統一の過程で臣従させた国主クラス・公卿クラスの大身大名などを中心に、羽柴の名字の授与が大規模に行われている。血縁・地縁に頼った秩序編成が難しい秀吉が羽柴姓自らの名字および豊臣姓大名たちに授与されることは羽柴氏擬制的な豊臣氏の家を構成族に列し、豊氏長者たる秀吉の命令権に服することを意味する。これによって彼らは官制以外、豊臣政権メンバーを秩序づけの職制のほか、氏姓制度の上からも秀吉の支配下に入ることとなり、秀吉が支配力の強化ををはかったものであると言える。
 
羽柴の名字は一定程度既成事実として定着し、秀吉の死後も[[島津家久]]・[[細川忠興]]・[[池田輝政]]・[[福島正則]]など一部の大名がその使用を続けている。しかし、[[慶長]]20年([[1616年]])5月、[[大坂の陣]]で秀吉の後継者[[豊臣秀頼|秀頼]]が死亡し、羽柴宗家が消滅したことにより、羽柴の名字を用いる家系は姿を消した。[[正保]]2年([[1645年]])に秀頼の遺児天秀が死去して秀吉の血統も絶えた。
 
 
==主な構成員==