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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 小笠原
| 時代 =
| 生誕 =
| 死没 =
| 墓所 =[[埼玉県]][[本庄市]]内の[[開善寺]]
| 官位 =
| 氏族 = [[小笠原氏]]▼
| 主君 =[[徳川家康]]
| 父母 = 養父:[[小笠原信嶺|信嶺]]、父:[[酒井忠次]]▼
| 藩 =[[武蔵国]][[本庄藩]]主→[[下総国]][[古河藩]]主
| 妻 = [[小笠原信嶺|信嶺]]の娘▼
| 子 = [[小笠原政信|政信]]、[[小笠原信政|信政]]、娘([[青山幸成]]正室)、娘([[高木貞勝]]室)、娘([[水野忠貞]]正室)▼
| 兄弟 =[[酒井家次]]、[[本多康俊]]、'''小笠原信之'''<br>[[松平久恒]]、[[酒井忠知]]
'''小笠原 信之'''(おがさわら のぶゆき
伊那[[小笠原氏]]の当主・[[小笠原信嶺]](本庄藩祖)の娘を妻として娶り、その養嗣子となり、慶長3年([[1598年]])、養父の死により家督を継ぎ、本庄藩初代藩主となる(家康の命により養嗣子になったとされる)。十数年の間、本庄を領していたが、慶長17年([[1612年]])になると古河へ加増移封された(これにより本庄藩は廃藩となった)。慶長19年
▲伊那[[小笠原氏]]の当主・小笠原信嶺の娘を妻として娶り、その養嗣子となり、慶長3年([[1598年]])、養父の死により家督を継ぎ、本庄藩初代藩主となる(家康の命により養嗣子になったとされる)。十数年の間、本庄を領していたが、慶長17年([[1612年]])になると古河へ加増移封された(これにより本庄藩は廃藩となった)。慶長19年(1614年)に死去(墓所は本庄の[[開善寺]])。死後、その家督は子の[[小笠原政信]]が継ぐ。
==関連項目==
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