「マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1610-1665)」の版間の差分

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1635年7月15日、[[ウィーン]]でマクシミリアンと結婚。母マリア・アンナはバイエルン公[[ヴィルヘルム5世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム5世]]の娘でマクシミリアンの妹であったため、伯父・姪同士の結婚であった。マクシミリアンは最初の妃エリーザベト・フォン・ロートリンゲンとの間に子供のないまま死別しており、マリア・アンナには早急に後継者を生む責任があった。マリア・アンナは知的で分別があり、精力的で、財政経験があったとされる。先妻エリーザベトと対照的に、マリア・アンナは積極的に政治に関わった。彼女は[[ハプスブルク家]]の立場と言うよりも、バイエルン選帝侯家の立場から行動した。[[ミュンヘン]]の宮廷で、夫の重臣たちと意見を交換することを好んだという。
 
夫の死後、長男[[フェルディナント・マリア (バイエルン選帝侯)|フェルディナント・マリア]]の摂政をつとめた。1665年、ミュンヘンで死去。
 
== 子女 ==
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{{DEFAULTSORT:まりあ あんな}}
 
[[Category:オーストリア・ハプスブルク家]]
[[Category:バイエルンの后妃]]
[[Category:女性摂政]]
[[Category:1610年生]]
[[Category:1665年没]]