「武田信玄」の版間の差分

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甲斐の[[守護]]を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期には国内統一が達成され、信玄も体制を継承して隣国・[[信濃国|信濃]]に侵攻する。その過程で対立した[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]]と5次にわたると言われる[[川中島の戦い]]を行いつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、[[駿河国|駿河]]、西[[上野国|上野]]、[[遠江国|遠江]]、[[三河国|三河]]と[[美濃国|美濃]]の一部を領し、次代の勝頼期にかけて武田氏の領国を拡大した。晩年、[[上洛]]の途上に、三河で病を発し信濃で病没した。
 
江戸時代から近現にかけて『甲陽軍鑑』に描かれる伝説的な人物像が広く浸透し、[[風林火山]]の軍旗を用い、'''甲斐の虎'''または龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも)と呼ばれ、強大な武田軍を率い上杉謙信の好敵手としてのイメージが形成される。現在でも、地元の山梨県をはじめ全国的に高い知名度を持ち、人気を集めている戦国武将の一人である。
 
== 生涯 ==
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父・信虎期は一族や[[国人]]領主を制圧して甲斐統一が達成され、[[甲府]]の[[躑躅ヶ崎館]]を本拠とした城下町が整備され[[戦国大名]]としての地位が確立された時期にあたる。
 
生誕地は武田館の背後にあたる[[要害山城]](または[[積翠寺]])で、『[[高白斎記]]』によれば信玄が誕生した大永元年(1521年)には[[駿河国]][[今川氏親]]の命を受けた[[福島正成]]率いる1万5000人の軍勢が甲府に迫り、大井夫人は要害山へ退いていたといわれ、武田方は荒川幡(甲府市)において今川方を撃退する。信玄の幼名は確実な史料では「太郎」であるが、『[[甲陽軍鑑]]』(以下『軍鑑』)によればこのときの勝利に因み「'''勝千代'''(かつちよ)」とも名付けられたという。信玄は後世に英雄視されていることから出生伝説もうまれ、『軍鑑』や『武田三代記』などによれば、信玄誕生のとき、産屋の上に一条の雲がたなびき白旗の風に翻るように見えたが、それが消えたとき一双の白鷹が3日間も産屋にとまったとされる。このため、諏訪明神の神使が若君(信玄)を守護してくれるのだと末頼もしく思ったとされている。別の話では、信虎が陣中で休息しているとき、[[曽我五郎]]が自分の子になる夢を見て、そのときに信玄が生まれたとされている。
 
大永5年([[1525年]])父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎([[武田信繁]])が生まれる。『軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り勝千代を徐々に疎むようになったと言う。[[傅役]]は不明だが、『軍鑑』では板垣信方が傅役であった可能性を示している。
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信虎後期には今川氏との和睦が成立し、関東地方において[[相模国]]の新興大名である[[後北条氏]]と敵対していた[[扇谷上杉氏]]と結び、甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。『[[勝山記]]』によれば、天文2年([[1533年]])に武蔵国川越城主[[上杉朝興]]の娘が晴信の正室として迎えられており、これは政略結婚であると考えられているが、晴信と彼女の仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年([[1534年]])に出産の折、難産で彼女も子も死去した。
 
天文5年([[1536年]])に[[元服]]し、[[室町幕府]]第12代将軍・[[足利義晴]]から「晴」の[[偏諱]]を賜り、「'''晴信'''」と改める(『高白斎記』による、「信」は武田氏の[[通字]])官位は[[従五位下]]・[[大膳職|大膳大夫]]に叙位・任官される。元服後に[[継室]]として[[左大臣]]・[[三条公頼]]の娘である[[三条の方|三条夫人]]を迎えている。この年には駿河で[[今川氏輝]]が死去し、[[花倉の乱]]を経て[[今川義元]]が家督を継ぎ武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。なお、『軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑視もされている(柴辻俊六による)。
 
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し信濃国[[佐久郡]]侵攻を進めているが、武家の[[初陣]]は元服直後に行われていることが多く、『軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡[[海ノ口城]]主[[平賀源心]]攻めであるとしている。『軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。