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'''蘆名 義広'''(あしな よしひろ、[[天正]]3年([[1575年]]) - [[寛永]]8年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]([[1631年]][[7月6日]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[安土桃山時代]]、[[江戸時代]]の武将。別名、盛重・義勝。幼名を喝食丸。父は[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]母は[[伊達晴宗]]の娘。[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]の弟、[[岩城貞隆]]、[[岩城宣隆|多賀谷宣家]]、[[佐竹義直]]の兄。[[蘆名盛俊|盛俊]]の父。[[伊達政宗]]は従兄弟にあたる
 
==生涯==
[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]の次男で、天正7年([[1579年]])、[[白河結城氏小峰義親|白河義親]]の養子となるが、[[蘆名盛隆]]の子[[蘆名亀王丸|亀王丸]]が夭折したため、天正15年([[1587年]])、蘆名盛隆の娘と結婚して蘆名義広と名乗り、[[蘆名氏]]二十代を継承する。しかし幼少であったために蘆名家臣団を掌握することができず、天正17年([[1589年]])、[[伊達政宗]]との[[摺上原の戦い]]で大敗し、[[黒川城]]は落城、[[常陸国|常陸]]に逃れた。政宗が得た蘆名領は、[[豊臣秀吉]]により没収されたが、蘆名氏の再興は許されなかった。その後、秀吉から[[常陸国|常陸]][[江戸崎藩]]に4万5,000石を与えられる。盛重と名乗ったのはこの時期であると言われている。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]で兄の[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]が西軍に与したために所領を没収され、慶長7年([[1602年]])、実父佐竹義重・実兄義宣とともに[[久保田藩|秋田領]]に入り、名を義勝と改め、[[仙北郡]][[角館]]に1万6,000石を与えられた。
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*[[白河結城氏]]
*[[蘆名氏]]
*[[小峰義親]]
*[[相馬利胤]]
*[[江戸崎藩]]