「フリードリヒ3世 (ドイツ王)」の版間の差分

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'''フリードリヒ3世'''(Friedrich III., [[1286年]] - [[1330年]][[1月13日]])は、[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア公]](フリードリヒ1世)、[[ローマ王]](ドイツ王、[[対立王]])。美王(der Schöne)と呼ばれる。[[神聖ローマ皇帝]](ドイツ王)[[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]]の次男。[[ルドルフ1世 (ボヘミア王)|ルドルフ3世]]の弟、[[レオポルト1世 (オーストリア公)|レオポルト1世]]、[[アルブレヒト2世 (オーストリア公)|アルブレヒト2世]]、[[オットー (オーストリア公)|オットー]]の兄
 
[[神聖ローマ皇帝]](ドイツ王)[[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]]の子で、[[1313年]]に[[ルクセンブルク家]]の[[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]が死んだ後、[[ヴィッテルスバッハ家]]の[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]と皇帝位を争ったが、選挙でルートヴィヒ4世に敗れた。その後数年間、弟[[レオポルト1世 (オーストリア公)|レオポルト]]の助けを得てルートヴィヒ4世と戦い、勝利を目前としたが、[[1322年]]9月、ミュールドルフ近辺の戦いで大敗し、多くの[[貴族]]と共に捕虜となった。[[1325年]]まで捕囚の身だったが、妥協が成立し、ルートヴィヒ4世が神聖ローマ皇帝として[[イタリア]]を治め、フリードリヒ3世がドイツ王としてドイツを治めることになった。

1330年にフリードリヒが死去した後は、ルートヴィヒ4世の単独統治となった。以後、[[1438年]]に[[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]がドイツ王に選出されるまで100年余りの間、ハプスブルク家は皇帝位から遠ざかることになった。
 
==子女==
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*フリードリヒ([[1316年]] - [[1322年]])
*エリザベート([[1317年]] - [[1336年]])
*アンナ([[1318年]] - [[1343年]])([[バイエルン大公|下バイエルン公]][[ハインリヒ15世 (バイエルン公)|ハインリヒ15世]]、ゲルツ公ヨハンの妃)
 
{{先代次代|[[神聖ローマ皇帝一覧|ドイツ王(ローマ王)]]|1314年 - 1330年<br><small>[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]の対立王<br>のち共同統治</small>|[[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]|[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]](単独統治)}}