「波多氏」の版間の差分

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[[嵯峨源氏]]の流れをくむ[[渡辺党]][[松浦氏]]の一統([[松浦党]])で、[[渡辺綱]]の曽孫にあたる[[松浦久]]の二男の松浦持が波多の地に移り[[康和]]四年([[1102年]])から波多持と波多姓を名乗り、[[岸岳城]]を本拠として発展した。ただし、[[佐志氏]]の一派から波多姓の人物が分かれた形跡も存在し、その実際の系譜は不明瞭なものとなっている。
 
一時は[[壱岐国|壱岐]]に進出し壱岐守護を称するなど全盛期を迎えたが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、[[波多盛]]の死後にお家騒動が勃発し、[[肥前有馬氏|有馬氏]]や[[龍造寺氏]]、そして同じ松浦党の一派下松浦党である[[松浦氏]]の干渉にあい、それに従属するようになる。
 
[[波多親]](肥前松浦8万石)は[[有馬氏]]からの養子であったが、有馬氏が衰退すると[[龍造寺隆信]]へ従属し、その勢力を保持した。龍造寺隆信が戦死すると[[薩摩国|薩摩]]より九州一円を制覇しつつあった[[島津氏]]寄りとなる。そのため、[[豊臣秀吉]]が兵を九州に送った際も([[九州平定]])、秀吉への臣従の姿勢をはっきりとせず改易されかかったが、その時は[[鍋島直茂]]のとりなしにより許された。しかし、[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]の時、鍋島直茂に従うよう命ぜられたが、それに反発、出陣後に独自行動をとったため、[[文禄]]2年([[1593年]])に秀吉から知行を没収され、武士・大名としての波多氏は滅亡した(但し滅亡理由については異説もある)。ただし末裔は未だ健在である。
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*[[鶴田氏]]
*[[日高氏]]
*[[肥前有馬氏|有馬氏]]
*[[松浦氏]]
*[[龍造寺氏]]