「アウグスト3世 (ポーランド王)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
DSisyphBot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 変更: fi:August III
編集の要約なし
21行目:
| 配偶者2 =
| 配偶者3 =
| 子女 = フリードリヒ・アウグスト<br/>ヨーゼフ・アウグスト・ヴィルヘルム<br/>[[フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ・クリスティアン]]<br/>[[マリア・アマリア・フォン・ザクセン|マリア・アマーリエ]]<br/>マリア・マルガレータ<br/>[[マリア・アンナ・ゾフィア・フォン・ザクセン|マリア・アンナ・ゾフィア]]<br/>[[フランツ・クサーヴァー・フォン・ザクセン|フランツ・クサーヴァー]]<br/>[[マリー=ジョゼフ・ド・サクス|マリア・ヨーゼファ]]<br/>[[カール・クリスティアン・フォン・ザクセン (クールラント公)|カール・クリスティアン]]<br/>マリア・クリスティナ・アンナ<br/>マリア・エリーザベト・アポロニア<br/>[[アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン|アルベルト・カジミール・アウグスト]]<br/>[[クレメンス・ヴェンツェスラウス・フォン・ザクセン|クレメンス・ヴェンツェスラウス]]<br/>マリア・クニグンデ・ドロテア
| 王家 = [[ヴェッティン家]]
| 王朝 =
30行目:
'''アウグスト3世'''(August III Sas, [[1696年]][[10月7日]] - [[1763年]][[10月5日]])は、[[ポーランド・リトアニア共和国]]の国王(在位:[[1734年]] - [[1763年]])、[[ザクセン選帝侯]](在位:[[1733年]] - [[1763年]])。[[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]の唯一の嫡出子、母は王妃[[クリスティアーネ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト]]。ザクセン選帝侯としては'''フリードリヒ・アウグスト2世'''(Friedrich August II)と称される。
 
== 生涯 ==
== ポーランド継承戦争 ==
[[Image:August III (Poland).jpg|thumb|left|[[ヤン・マテイコ]]による肖像画]]
フリードリヒ・アウグスト2世は、父アウグスト2世(フリードリヒ・アウグスト1世)の死によって世襲する[[ザクセン公国]]およびザクセン選帝侯位を継承したが、[[選挙王制]]のポーランドでは、[[セイム]]による[[国王自由選挙]]を経なければ王位の継承が認められなかった。フリードリヒ・アウグスト2世はあくまでポーランド王位を要求し、[[ポーランド継承戦争]]が勃発した。
36行目:
ポーランド王にはポーランド議会の支持により、[[大北方戦争]]時代に一時王位に就いた[[スタニスワフ・レシチニスキ|スタニスワフ1世]]が再登極していたが、一部のポーランド貴族の支持によってフリードリヒ・アウグスト2世が担ぎ上げられた。しかし、ポーランドの内紛は近隣諸国の介入を呼び、内戦から諸外国を巻き込んだ戦争へと発展していった。フリードリヒ・アウグスト2世は[[ロシア皇帝|ロシア女帝]][[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ]]、[[神聖ローマ皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]の支持を得て、2年に及ぶ戦争を経て、晴れてポーランド王位を獲得した。しかし新王アウグスト3世を支持したロシアの影響力が増し、ポーランドは次第にロシアの[[属国]]、あるいは近隣諸国の[[緩衝国]]へと成り果てて行った。
 
== オーストリア継承戦争 ==
[[1740年]]、カール6世の死去によって[[ハプスブルク家]]の男子が絶えると、[[マリア・テレジア]]の家督相続を巡って[[オーストリア継承戦争]]が勃発した。アウグスト3世はカール6世の兄[[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ1世]]の娘[[マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1699-1757)|マリア・ヨーゼファ]]を妃としていたため、マリア・テレジアの支持を表明しながらも、ハプスブルク家領であったベーメン([[ボヘミア]])の継承を主張してベーメンに侵攻した。しかし結局、和平交渉の後に撤退を余儀なくされた。その後、ハプスブルク家領であった[[シレジア|シュレージエン]]の領有を巡る[[プロイセン王国|プロイセン]]王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の進撃を阻止するため、ザクセン軍を率いてオーストリア軍と共にプロイセン軍と戦ったが敗北し、アウグスト3世にとっての戦争は終結した。
 
== 七年戦争 ==
アウグスト3世の晩年、[[1756年]]に[[七年戦争]]が勃発するが、ザクセンにもポーランドにも、もはやこれに対抗しうる国力はなかった。ザクセンは真っ先にプロイセンに占領され、アウグスト3世は宮廷をポーランドに避難させた。またポーランドは、プロイセンへ進撃するロシア軍の通り道にしかならなかった。ザクセンは帝国領であるが故に致命的な損失を免れたが、ポーランドでは国力の低下や王権の一層の弱体化、国家主権の衰退などを露呈させる結果となった。