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[[北海道札幌南高等学校]]を経て、[[1973年]][[北海道大学]][[獣医学部]]卒業。在学中は[[柔道]]に打ち込み、キャプテンもつとめた。
 
北海道大学柔道部では普通の柔道とは違い、[[ 七帝柔道]]という名の寝技中心の柔道をやっていた。これは、戦前のいわゆる高専柔道の流れをひくもので、15人の団体戦で、場外なし、一本勝ちのみの壮絶なものである。この15人の団体戦の寝技ばかりという特殊な形態で、他のスポーツではありえないほどのチームの結束をみる。そこで得た組織論が、のちに旭山動物園の改革にすべてぶつけられ、大成功につながった。
:北大柔道部はチームの結束を重視するその独自の競技性から、小菅の他にも多彩な人材が出ており、小菅の先輩には[[堂垣内尚弘]](元[[北海道知事]])、[[松田昌士]](元[[JR東日本]]会長)、後輩には[[秋野豊]]([[政治学者]]、[[タジキスタン]]で殉職)、[[増田俊也]]([[作家]])、[[中井祐樹]](元[[修斗]]ウェルター級チャンピオン、現在[[ブラジリアン柔術]]家)、[[山下志功]](元修斗ウェルター級チャンピオン)らがいる。
 
本人によると、この北大柔道部での過酷な練習であまりにも腕が太くなり、[[ウシ|牛]]の[[直腸]]に[[腕]]が入らず産業獣医師を断念したという。