「若嶋津六夫」の版間の差分

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Takashieikou (会話 | 投稿記録)
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[[1982年]](昭和57年)3月場所、[[小結]]を飛び越えて[[関脇]]昇進。同7月に一度小結に落ちたが、すぐ関脇に返り咲き、以後[[前頭|平幕]]に落ちることなく[[1983年]](昭和58年)1月場所で大関に昇進。高卒入門での大関昇進は初めてだった。同年9月場所より四股名を「若島津六男」から「若嶋津六夫」に改名。
 
大関昇進後はほぼ安定して10勝前後をあげ、[[1984年]](昭和59年)には3月場所(14勝1敗)、7月場所(15戦全勝)と合計2回の幕内優勝を果たし、[[横綱]]も間近と思わせた。ところが、綱取りの最大のチャンスだった同年9月場所では、平幕ながら最後まで優勝争いに絡んでいた[[KONISHIKI|小錦]]と[[多賀竜昇司|多賀竜]]にそれぞれ敗れて11勝4敗、連覇と綱取りを逸した。余談だが、この時若嶋津と多賀竜を対戦させるため、若嶋津にとって唯一の対横綱戦である[[千代の富士貢|千代の富士]]戦を消したことで、横綱昇進を判断する材料を協会自ら消したのではないかと、[[日本相撲協会|相撲協会]]の取組編成のやり方が問題視されている。綱取りは失敗したが九州11月場所でも11勝をあげ71勝19敗で年間最多勝を獲得。最高位が大関で引退した力士で年間最多勝に輝いたのは若嶋津を[[霧島一博|霧島]]の2人しかいない。
 
翌[[1985年]](昭和60年)3月場所では、[[千秋楽]]まで優勝争いに絡んだものの、[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]との[[相星]]決戦で敗れて。さらに7月場所で[[大錦一徹|大錦]]戦で左の肩と肘を捻挫して途中休場。初の大関[[角番]]となった翌9月場所は、体調が万全では無かったものの9勝6敗となんとか勝ち越して、角番を脱出。その9月場所直後の[[9月27日]]、みづえ夫人と結婚披露宴を挙げた。