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'''原田 宗時'''(はらだ むねとき、[[1565年]]([[永禄]]8年)- [[1593年]]7月([[文禄]]2年))は、[[安土桃山時代]]の人物。[[伊達氏]]の家臣。[[原田宗政]]の甥(父は山嶺源市郎)。虎駒。左馬之助。原田城の城主
 
宗時の[[原田氏]]は伊達氏初代の[[伊達朝宗|朝宗]]以来の代々の宿老といわれる。
 
宗政に嗣子が無かったため、[[1582年]]に宗政が戦死すると、伊達政宗の命により、その後を継いだ。[[伊達政宗]]に早くから仕え、武勇才気優れ富み、わずか18歳にし原田城城主を継たことからで軍務を掌握、各所の戦いにおいて顕著な戦功をあげ、政宗の厚い信頼を受けた。[[摺上原の戦い]]にも参加して武功を挙げている。
 
[[1593年]]、[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]のときに政宗に従って渡海したが、まもなく釜山にて病を患い[[対馬国]]にまで戻ったが、そこで同年のうちに病死した。享年29歳。政宗は宗時のあまりにも早すぎる死を惜しみ、『国風六首』を詠じた。
死後、宗時には子供がいなかったので、政宗の命により、桑折家の宗資が養子にはいり、原田宗資と名乗る。
 
[[後藤信康]]と対立関係にあり、日頃の信康の態度に憤激した宗時は信康に決闘を申し入れたが、信康に諭され和解したという武人らしいエピソードも残る。
 
朝鮮出兵に参陣した伊達軍は、とても派手な格好をしていて評判になり、京の町では派手好きな人を「伊達者」というようになった。中でも宗時は、同僚の後藤信康と二人で駿馬にまたがり、長さ1間半(約2,7メートル)もの大太刀に、金の鎖をつけて方から提げ、大太刀が地面につきそうなくらいであったといい、「さすがは伊達者」と人々を驚かせたというエピソードがある。
 
宗時の孫にあたる原田甲斐宗輔は、1970年の大河ドラマ「樅の木は残った」の主人公である。
[[Category:戦国武将|はらた むねとき]]
[[Category:1565年生|はらたむねとき]]