「ウグリチのドミトリー」の版間の差分

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[[イヴァン4世]]が亡くなると、ドミトリーの腹違いの兄[[フョードル1世]]がその後を継いだ。とはいえ、ロシアの事実上の支配者となったのはフョードルの妻の兄で、大貴族の[[ボリス・ゴドゥノフ]]だった。後に広まった話では、ゴドゥノフは自分がツァーリになる野心を抱いており、子供のいないフョードルの後を継ぐ可能性のあったドミトリーを排除しようと考えていたという。1584年、ゴドゥノフはドミトリーとその母親マリヤ、そしてマリヤの兄弟を、ドミトリーが分領として与えられていた[[ウグリチ]]に追いやった。
 
1591年5月15日、ドミトリーは謎に包まれた状況で、刃物による刺し傷が原因となって亡くなった。フョードル1世が跡継ぎのないまま没し、[[リューリク朝|リューリク]]が断絶してボリス・ゴドゥノフがツァーリに即位すると、もう一人の継承者となるはずだったドミトリーの死の真相を巡ってロシアでは様々な噂が飛び交い、やがてロシアは[[動乱時代]]と呼ばれる混乱に陥る。
 
== 死因 ==
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* ドミトリーは[[ボリス・ゴドゥノフ]]の命令で殺された。暗殺者はドミトリーの死を事故に見せかけた([[ニコライ・カラムジーン]]、[[セルゲイ・ソロヴィヨフ]]、[[ヴァシリー・クリュチェフスキー|ヴァシーリー・クリュチェフスキー]]ら19世紀の高名な歴史家たちはこの説を支持した)。しかしこの説には批判も存在する。ドミトリーはイヴァン雷帝の7度目(数え方によっては5度目)の結婚で生まれた子供であり、結婚を3度目までしか合法と認めない[[ロシア正教会]]の[[教会法]]に照らし合わせれば、ドミトリーは[[非嫡出子]]であった。ドミトリーが存命のままだったとしても、ツァーリの座を継げたかどうかは疑わしい、というものである。
 
[[ファイル:Dmitrij church Uglich 9696.jpg|thumb|left|200px225px|ドミトリーの「殺害現場」に建てられた、血の上のドミトリー皇子教会]]
* ドミトリーはナイフを持って遊んでいたときに[[癲癇]]の発作を起こし、自分の持っていたナイフで喉を傷つけてしまった([[ミハイル・ポゴディン]]、[[セルゲイ・プラトーノフ]]らがこの説を支持した)。この説に対する反論は、癲癇の発作が起きれば手は大きく広がり、発作の起きている者が自分に致命傷を与えることはまずあり得ない、というものである。しかし、この事件に関する当時の調査結果によれば、皇子はナイフを使って[[ダーツ]]遊びをしていた最中に発作を起こし、ちょうど自分に向ける形で刃物を握っていたという。ナイフが自分の身体に向いた状態であったならば、発作が起きたときにそれが喉を傷つけることは、おおいにあり得ると思われる。
 
* ドミトリーの最期に関しては第3の説というのもあり、こちらはコンスタンチン・ベストゥージェフ=リューミン、イヴァン・ベリャーエフといった初期の歴史家の一部に支持された。第3の説は、ゴドゥノフの手下はドミトリーを暗殺しようと企んだが、間違えて誰か別の人間を殺してしまい、当のドミトリーは逃亡に成功したというものである。この説は、[[ポーランド]]貴族たちの支援を受けた自称ドミトリーたち([[偽ドミトリー1世]]、[[偽ドミトリー2世]]、[[偽ドミトリー3世]])が、自分たちが出現するまでの経緯を説明するために利用してもいる。しかし現代のロシアの歴史家の大半は、暗殺者に皇子が見分けられないということはまずあり得ないため、ドミトリーが生き延びたというのは信じがたいという判断を下している。また、[[偽ドミトリー1世]]を支援していた多くのポーランド貴族たちが、彼を本物の皇子だと信じてはいなかったことは有名な事実である。
 
[[ファイル:Saint Dmitriy icon.jpg|thumb|225px|ドミトリーの[[イコン]]]]
== ドミトリーの死の影響 ==
[[ファイル:Saint Dmitriy icon.jpg|thumb|225px|ドミトリーを描いた18世紀の[[イコン]]]]
皇子の死後まもなく、[[ウグリチ]]では激しい暴動が起きた。暴動を起こした者たちは、ドミトリーは殺されたのであり、そして皇子の母親[[マリヤ・ナガヤ]]とその兄弟ミハイル・ナゴイはドミトリーの死に責任があると主張した。これを聞いて怒り狂った市民たちは、ドミトリーの「暗殺者」と見なされた者15人を[[リンチ]]にかけて殺した。リンチの犠牲者の中には、モスクワ政府に使える地元の役人とドミトリーの遊び友達の1人もいた。後になって政府から派遣された[[ヴァシーリー・シュイスキー]]公爵を代表とする調査団は、証言者たちを徹底的に洗い上げ、皇子は自ら喉を刃物で傷つけたのが原因で死んだと結論した。政府の調査が終わると、ドミトリーの母マリヤ・ナガヤは皇子の死に過失があったとして修道女にさせられ、辺境の修道院に追放された。
 
しかし、シュイスキーは1605年に[[偽ドミトリー1世]]が出現すると自分の調査結果を覆し、皇子は暗殺者の手を逃れて生き延びていたと認めた。やがて偽ドミトリー1世の人気が落ち始めると、さらに再び前言を撤回して本物のドミトリーは[[ボリス・ゴドゥノフ]]に暗殺されたのだと主張し、1606年5月に偽ドミトリー1世を死に追いやってツァーリの座を奪い取った。シュイスキーは本物のドミトリーが死んでいることを実証するため、1606年6月3日に皇子の遺体をウグリチから[[モスクワ]]に運ばせた。この時、掘り起こされた皇子の遺体は腐敗していなかったとされ、この奇跡によってドミトリーはロシア正教会に列聖された。彼は「'''敬虔なる皇子ウグリチのドミトリー'''(благоверный царевич Димитрий Углицкий)」として崇敬されている。

20世紀には、ロシアおよび[[ソ連]]の歴史家の大多数が、ドミトリーは事故死したというシュイスキーの報告に基づいた最初の公式見解が、最も信用できると考えるようになった。
 
== 関連項目 ==