「バヤン (メルキト部)」の版間の差分

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[[1332年]]にはトゥク・テムルが亡くなるが、バヤンはエル・テムルとはかってまだ幼児の[[イリンジバル]]をハーンに立てる。しかし、新ハーンはわずか2ヶ月で死んでしまい、翌[[1333年]]にはエル・テムルが病没した。エル・テムルに代わる朝廷の最有力者となったバヤンは代わりのハーンとしてリンチェンパルの兄[[トゴン・テムル]]を擁立し、自ら中央政府の首班である右丞相に就任。[[1335年]]にはエル・テムルの遺児タンキシの起こした[[クーデター]]を鎮圧し、ついに独裁権を掌握する。
 
やがてトゴン・テムルは成人するにつれてバヤンの専権を疎ましく思うようになったが、丁度バヤンの甥[[トクト]]が伯父を排斥しようとトゴン・テムルに接近してきた。[[1340年]]、トゴン・テムルの後援を受けたトクトはバヤンが宮廷を留守にした隙にクーデターを起こし、バヤンを失脚させた。バヤンは[[広東省|広東]]への流刑に処され、南に向かう途上で病死した。
 
バヤンは元では細々と実施されていた[[科挙]]を廃止したり、[[漢民族|漢族]]を虐殺して人口を減らすことを提案するなど、中国文化を排撃したことで有名である。彼にかわって政権を握った甥のトクトが科挙を復活し、[[欧陽脩]]以来の[[正史]]となる『[[遼史]]』『[[金史]]』『[[宋史]]』の修史事業を行うなど、伯父とは対照的に中国文化に理解の深い為政者であったことから、トクトによるバヤンの追放は高原派と漢地派による対立であったと説明されることも多い。
 
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