「パーヴェル・アレクサンドロヴィチ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
[[image:PaulAleksandrovitsj.jpg|thumb|パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公]]
'''パーヴェル・アレクサンドロヴィチ'''('''{{lang|ru|Павел Александрович}}''' / '''Pavel Alexandrovich''', [[1860年]][[10月3日]] - [[1919年]][[1月24日]])は、[[ロシア帝国|ロシア]]の皇族、[[ロシア大公]]。[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル2世]]の第6皇子、母は皇后[[マリア・アレクサンドロヴナ (ロシア皇后)|マリア・アレクサンドロヴナ]]。騎兵[[大将]]。軍人としてよりも、穏和で信仰心の深い紳士として知られていた。
 
== スキャンダル生涯 ==
[[1889年]][[ギリシャ王国|ギリシャ]]王[[ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス1世]]の娘[[アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ]]と結婚、間に1男1女が生まれるが、アレクサンドラ大公妃はドミトリー大公を出産直後に死去した。[[1893年]]、パーヴェル大公は平民女性[[オリガ・パ-レイリィ|オリガ・カルノヴィチ]]([[:en:Olga Valerianovna Paley|en]])と恋に落ち、大公は皇帝[[ニコライ2世]]に結婚の勅許を願い出たが、皇帝は[[貴賤結婚]]としてこれを認めなかったため、2人は[[パリ]]に逃避行の末、[[1902年]][[イタリア]]の[[リヴォルノ]]にある[[正教会]]で結婚した。[[1904年]]、オリガは[[バイエルン王国]]によりホーエンフェルゼン伯爵夫人の称号を与えられたが、ロシア宮廷では2人の結婚は醜聞となり、大公は軍籍剥奪のうえ全財産を没収され、2人の嫡出子は子供の無い兄[[セルゲイ・アレクサンドロヴィチ|セルゲイ大公]]に養育されることになった。パーヴェル・オリガ夫妻は[[フランス]]で生活し、3人の子供に恵まれた。その後、夫妻はロマノフ一門と和解し帰国する。一家は[[ツァールスコエ・セロー]]に居を構え、[[1915年]]ニコライ2世からオリガと3人の子に対してパーレイリィ公の称号と殿下の敬称が与えられた。
 
[[第一次世界大戦]]後、近衛グロデンスク連隊長として軍務に就いたが、前線への異動を要請し、1916年に近衛第1軍団長に任命された。1916年7月15日~16日、軍団はコヴェリ方面で敵陣地を突破し、敵にストホードを放棄させた。この功績により、四等聖ゲオルギー勲章が授与された。ニコライ2世が総司令官に就任後は、親衛隊監察官として皇帝の[[スタフカ|総司令部]]に勤務した。
9行目:
[[1917年]]、ニコライ2世に対して新[[憲法]]の発布を主張するが、大公の意見は容れられなかった。パーヴェル大公は、ロマノフ家の皇族では皇后[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ]]と親しかった数少ない1人であった。大公は、[[ロシア革命]]によって[[ロマノフ王朝]]が崩壊するまで皇后との親交を保った。
 
[[ボリシェヴィキ]]による権力掌握後、パーヴェル大公一家の財産は没収され、ボリシェヴィキの監視と嫌がらせの中で生活することを余儀なくされた。[[1918年]]3月、大公の次男ウラジーミル・パーレイ公は[[ウラル]]に移送され、[[1918年]][[7月18日]]に虐殺された。同年8月にパーヴェル大公も逮捕され、[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]の刑務所に収監された。大公の健康はひどく損なわれ、次第に衰弱していった。オリガは、大公を救出すべくあらんかぎりの努力を尽くした。しかし、その願いも虚しく、[[1919年]][[1月29日]]、パーヴェル大公は[[ペトロパヴロフスク要塞]]に移され、翌30日に[[ドミトリー・コンスタンチノヴィチ|ドミトリー・コンスタンチノヴィチ]]大公]]([[:en:Grand Duke Dmitri Konstantinovich of Russia|en]])、[[ニコライ・ニコラエヴィチ|ニコラミハ・ニコラエヴィチ大公]]大公、[[ゲオルギー・ミハイロヴィチ|ゲオルギー・ミハイロヴィチ]]大公]]([[:en:Grand Duke George Mihailovich of Russia|en]])らと共に虐殺された。ボリシェヴィキによって大公の遺骸は、要塞内の[[集団墓地]]に埋葬された。ボリシェビキはオリガに対して[[埋葬式]]を許さず、大公の遺体の行方は不明のままである。
== 革命と処刑 ==
[[ボリシェヴィキ]]による権力掌握後、パーヴェル大公一家の財産は没収され、ボリシェヴィキの監視と嫌がらせの中で生活することを余儀なくされた。[[1918年]]3月、大公の次男ウラジーミル・パーレイ公は[[ウラル]]に移送され、[[1918年]][[7月18日]]に虐殺された。同年8月にパーヴェル大公も逮捕され、[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]の刑務所に収監された。大公の健康はひどく損なわれ、次第に衰弱していった。オリガは、大公を救出すべくあらんかぎりの努力を尽くした。しかし、その願いも虚しく、[[1919年]][[1月29日]]、パーヴェル大公は[[ペトロパヴロフスク要塞]]に移され、翌30日に[[ドミトリー・コンスタンチノヴィチ|ドミトリー・コンスタンチノヴィチ大公]]([[:en:Grand Duke Dmitri Konstantinovich of Russia|en]])、[[ニコライ・ニコラエヴィチ|ニコライ・ニコラエヴィチ大公]]、[[ゲオルギー・ミハイロヴィチ|ゲオルギー・ミハイロヴィチ大公]]([[:en:Grand Duke George Mihailovich of Russia|en]])らと共に虐殺された。ボリシェヴィキによって大公の遺骸は、要塞内の[[集団墓地]]に埋葬された。ボリシェビキはオリガに対して[[埋葬式]]を許さず、大公の遺体の行方は不明のままである。
 
== 子女 ==
16 ⟶ 15行目:
*[[マリア・パヴロヴナ (セーデルマンランド公爵夫人)|マリヤ]](1890年‐1958年)…[[スウェーデン|スウェーデン王]][[グスタフ5世 (スウェーデン王)|グスタフ5世]]の次男[[ヴィルヘルム (セーデルマンランド公)|ヴィルヘルム]]と結婚、ロマン・プチャーチン公と再婚、回想記『最後のロシア大公女 革命下のロマノフ王家』がある(平岡緑訳、[[中央公論社]]、のち[[中公文庫]])。
*[[ドミトリー・パヴロヴィチ|ドミトリー]](1891年‐1941年)…[[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]の暗殺者、ボリシェビキ革命に際し亡命に成功。
二番目の妻[[オリガ・パーレイリィ|オリガ・カルノヴィチ]]との間には、一男二女をもうけた。子供達はオリガに与えられたパーレイ公(公女)の姓を名乗った。
*[[ウラジーミル・パーリィ|ウラジーミル]](1897年‐1918年)…[[詩人]]、父と同じくボリシェビキ政権に処刑された。
*[[イリナ・パーレイリィ|イリナ]](1903年‐1990年)…ロマノフ一族の又従兄にあたる[[フョードル・アレクサンドロヴィチ|フョードル・アレクサンドロヴィチ公]]と結婚。
*[[ナタリー・パレ|ナタリヤ]](1905年‐1981年)…[[フランス]]の[[ファッション・モデル]]、[[女優]]。
== 関連文献 ==