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'''日本画'''(にほんが)は、[[絵画]]のジャンルのひとつで、[[日本]]独特のもの

狭義では、[[明治戦前]]時代日本に導入された[[油絵]]を「[[洋画]]」と呼ぶのに対しおいて、油彩に依らず、それまで旧来の日本の伝統的な技法や様式の上に育てられた絵画を指す。狭義これ対して、[[油絵]]明治以降のもの「[[洋画]]」と呼ばれていた。

広義あるがそれ[[江戸時代]]以前のものにも拡張して呼ぶことある。その場合、[[中国]]や[[朝鮮]]半島{{要出典}}に由来しながらも主題や様式において日本的特徴を持つものを意味するのか、あるいは油彩技法が到来する以前に日本で制作された図画一般まで指すのか、定義があいまいなまま使われることも多い。
 
==日本画の誕生==
[[奈良時代]]から[[平安時代]]にかけて、[[中国]]や[[朝鮮半島]]などから渡来した技法や様式、あるいはそれに倣い日本で描かれた図画が「[[唐絵]]」と呼ばれた。これに対して日本的な主題を描くものが産まれ、「[[大和絵]]」と呼ばれた。<br>その後、「漢画」に対する「和画」や、「唐画」に対する「和画」などと、呼び方やその区分は時代によって異るが、海外から新しく流入した画風に対し、旧来のものを日本の伝統的なものと考えるパターンは繰り返されていた。
 
その後「漢画」に対する「和画」や、「唐画」に対する「和画」などと、呼び方やその区分は時代によって異るが、海外から新しく流入した画風に対し、旧来のものを日本の伝統的なものと考えるパターンは繰り返されていた。<br>
「日本画」は明治初期、[[1870年代]]に[[ヨーロッパ]]からもたらされた[[油彩画]]すなわち西洋画(または「洋画」)に対して、それまでの日本にあった図画に対して用いられた用語である。
 
明治初期の[[1876年]]、[[明治政府]]は西洋画法を学ぶため[[イタリア]]から[[アントニオ・フォンタネージ]]を招き、[[工部美術学校]]を創立した。[[浅井忠]]らがその第1期生であった。<br>その2年後の[[1878年]]にフォンタネージは帰国。いっぽう[[アメリカ合衆国]]から[[アーネスト・フェノロサ]]が来日し、[[東京大学|東京帝国大学]]で[[哲学]]などを教えた。
その2年後の[[1878年]]にフォンタネージは帰国。いっぽう[[アメリカ合衆国]]から[[アーネスト・フェノロサ]]が来日し、[[東京大学|東京帝国大学]]で[[哲学]]などを教えた。
 
フェノロサが日本の美術に強い関心を示し、評価したことは有名である。<br>
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橋本雅邦は兄弟子[[狩野芳崖]]とともに[[狩野派]]の出身でありながら、独自の画風を拓こうとした画家であったし、横山も新しい技法を開発している。
 
フェノロサが最初に使った「日本画」という言葉は、西洋から渡来した油彩画に対して、それまでに日本にあった図画全般を単に指すものではなく、中国や朝鮮半島に由来しながらも、日本の中で熟成、独自に発展した様式について言っているものであろう。しかし、これに発して岡倉らが育てて現在に至る日本画はそれとも異り、洋画の対抗勢力としてその後に発達したものである。その意味では日本画は明治戦前以降のものであり、明治戦前の横山大観が[[日本画家]]であっても、[[江戸時代]]の[[狩野永徳]]は日本画家ではない。
 
日本画の誕生は、明治政府の[[欧化政策]]のもとでの[[西洋]]文化の急速な流入に対する[[国粋主義]]的な危機感と、当時のアメリカ合衆国で[[ヨーロッパ]]由来の文化との対抗軸を模索していたフェノロサとの出会いと共感が造り出したものかもしれない。[[イギリス|英国]]から独立を果たし、[[南北戦争]]を経て安定したアメリカ合衆国では、[[1876年]]に[[ボストン美術館]]が設立された。フェノロサは[[1890年]]に帰国後その初代日本部長となり、岡倉はその後を引き継いで[[1910年]]、ボストン美術館中国・日本美術部長となる。
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[[Category:日本美術史]]
[[Category:絵画技術]]
[[Category:戦前日本の文化]]
 
[[de:Nihonga]]