「高熲」の版間の差分

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== 略歴 ==
幼くして聡明で度量があり、史書を広く読み、弁舌の応対に巧みであった。17歳の時、[[北周]]の斉王・[[宇文憲]]の記室参軍となる。[[武帝 (北周)|武帝]]の時に、父・高賓の武陽県伯を継いで内史上士となり、まもなく下大夫に任じられた。武帝が[[北斉]]を滅ぼした時に功績をあげて開府を拝した。
 
随国公・楊堅(のちの隋の文帝)は北周の実権を握ると、高熲が有能で誠実であり、計略に優れていることから、彼を自らの幕下に招き入れ、相府司録として重用した。[[580年]]、[[尉遅迥]]が[[ギョウ|鄴]]で反乱を起こすと、楊堅は[[韋孝寛]]を総大将として討伐に向かわせたが、諸将の意見が一致せず、軍は河陽に至ると沁水をはさんで敵と対峙したまま進軍しなかった。高熲は自ら願い出て軍中に赴くと、沁水に橋を架けさせて川を渡り、敵軍を大いに打ち破った。鄴に進軍し尉遅迥と交戦し、宇文忻・李詢らとともに策を設けてこれを打ち破り、乱を平定することに成功した。帰還すると柱国に位が進んで義寧県公に改封され、[[相国]][[司馬]]となった。