「玉響克己」の版間の差分
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== 来歴 ==
[[大分県立海洋科学高等学校|大分県立大分水産高校]]を中退後、同郷の[[玉乃海大三郎|玉乃海]](後、[[年寄]]・[[片男波]])のいる二所ノ関部屋に入門。角界入りする前は、捕鯨船の乗組員を志していたという。[[1954年]]1月場所で[[初土俵]]を踏み、翌3月場所、本名でもある「新川」の[[四股名]]で[[序ノ口]]に付いた。
体格にはあまり恵まれていなかったが比較的順調に出世し、[[1958年]]5月場所で十両へと昇進。この場所では11勝4敗という好成績を挙げて、[[千秋楽]]の十両優勝決定戦に登場した。[[北葉山英俊|北葉山]]・[[若秩父高明|若秩父]]・[[柏戸剛|冨樫]]・[[若三杉彰晃|若三杉]]・[[明武谷力伸|明歩谷]]・[[富士錦猛光|冨士錦]]の6人との決定戦には敗退するも(優勝は若秩父)、これら7人は「7人の侍」と称され、話題になった(「7人の侍」の内、玉響を除く6人は後年、[[三役]]への昇進を果たしている。冨樫は、後の横綱・柏戸。北葉山は
以降も幾度か横綱・大関陣との対戦圏内(※本記事では、[[関脇]]~前頭4枚目を指す)に進出したが、ちゃんこ嫌いで体重が中々増えなかった事や軽量による体力不足もあって振るわず、1960年9月場所(前頭4枚目、8勝7敗)以外はいずれも負け越している。結局、横綱・大関に勝つ事は一度も叶わず、三役への進出も果たせなかった。
その後、年寄・片男波の独立に伴い、二所ノ関部屋から片男波部屋へと移籍(この際に騒動が起きた。詳しくは、「[[片男波部屋]]」の項目を参照の事)。1961年9月場所以降は幕内に復帰できず、十両14枚目の地位で4勝11敗と大敗した[[1962年]]9月場所後、26歳の若さで廃業した。
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