「マールバラ (戦艦)」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
Locust-of-abaddon (会話 | 投稿記録) |
||
69行目:
[[1919年]]には、[[ジョージ5世_(イギリス王)|ジョージ5世]]の命により彼の叔母である[[マリア・フョードロヴナ_(アレクサンドル3世皇后)|マリヤ・フョードロヴナ]]と[[ロマノフ家|その家族]]を救うため、マールバラは[[4月4日]]、[[オスマン帝国]]・[[イスタンブル]]を発し一路[[セヴァストポリ|セヴァストーポリ]]方面へ向かった。[[4月7日]]、彼女らが監禁されていた[[クリミア半島]]の避暑地[[ヤルタ]]に到達したマールバラは、一家の救出を速やかに実行した。当時、旧[[ロシア帝国海軍|ロシア帝国艦隊]]の主力は[[連合国_(第一次世界大戦)|連合国]]軍の管理下に置かれており、残る艦船も連合国と同盟関係にある[[白軍]]が掌握していて、敵方となる[[赤軍]]にはマールバラに対抗できるような海上戦力はなかった。
不幸にして皇帝一家は殺害されたが、マールバラの救出劇のお陰で多くの命が救われた。その中には、皇太后[[マリア・フョードロヴナ_(アレクサンドル3世皇后)|マリア・フョードロヴナ]]の他、その娘の[[クセーニヤ・アレクサンドロヴナ]]、孫の[[イリーナ・ユスーポヴァ|イリーナ・アレクサンドロヴナ]]、その夫[[フェリックス・ユスポフ|フェーリクス・ユスーポフ]]、元帝国軍最高司令官[[ニコライ・ニコラエヴィチ
[[難民]]を乗せたマールバラは、内戦から安全なコンスタンティノープルに無事帰着し、これらの人々の多くはイギリスや[[フランス]]、そしてのちには[[アメリカ合衆国]]などへ逃れた。
|