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[[延宝]]6年([[1678年]])に[[赤穂藩]]浅野家家臣の近松小右衛門行生の五男として誕生。母は[[徳島藩]]蜂須賀家家臣の仁尾官右衛門の娘かめ。四十七士の一人[[近松勘六]]は異母兄にあたる。[[元禄]]7年([[1694年]])、[[奥田孫太夫]](四十七士の一人)の婿養子に入った。[[元禄]]14年([[1701年]])3月14日、主君[[浅野内匠頭]]が[[吉良上野介]]に刃傷に及んだ際には[[江戸]]にあり、4月に養父[[奥田孫太夫]]が[[堀部安兵衛]]らとともに国許の赤穂に向かった後も貞右衛門は江戸の深川八幡町にあり、この頃に清十郎を儲けた。その後は父とともに行動し、深川黒江町に住んだ。変名は西村丹下。
 
吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属した。本懐後、[[水野忠之]]の屋敷にお預かりとなり、同家家臣値賀又蔵横山笹右衛門の介錯で切腹した。[[享年]]26。主君[[浅野内匠頭]]と同じ江戸の高輪[[泉岳寺]]に葬られた。法名は刃秋跳剣信士。
 
貞右衛門は、遺児である清十郎を気遣い、自分の死後、その脇差を売ってかまわないと言い残している。清十郎は、のちに親戚の仁尾家に養子に入り、その家督を継いで[[徳島藩]]士となっているが、[[享保]]9年に24歳の若さで死去している。