「一色義定」の版間の差分
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'''一色 義定'''(いっしき よしさだ、生年不詳<!--[[永禄]]元年([[1558年]])--> - [[天正]]10年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]([[1582年]][[9月24日]])?)は
父は[[一色義道]]、妻は[[細川幽斎|細川藤孝]](幽斎)の娘伊也(『一色軍記』では”菊の方”)。
==経歴==
剛勇に優れ
このため山陰道進攻軍総帥の[[明智光秀]]は、[[細川幽斎|細川藤孝]]の娘を義定に娶わせることで一色家と和議を結び、以後は細川家とともに丹後を分割して統治することとなる。その後は丹後守護として信長に認められ、[[1581年]]の[[京都御馬揃え]]にも出席、[[武田氏|甲斐武田氏]]の討伐にも細川氏と共に従軍している。▼
▲抗戦に手こ
この一色氏の滅亡により、この後は[[丹後国|丹後全土]]を細川家が支配することとなった。▼
1582年の[[山崎の戦い]]では[[明智光秀]]に味方したが、細川氏の縁戚を考慮されたためか、戦後は許されている。のちに[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]から義定による謀反企図の報に接し、細川氏によって[[宮津城]]にて謀殺された。その際、城内の家臣や城下の雑兵100人も[[松井康之]]、米田求政率いる軍勢に討ち取られ、弓木城も降伏した。なお、妻伊也は降伏した際に細川氏に戻っている。
没した日について、『一色軍記』においては本能寺の変以前の2月に義俊(義定)が殺害されたことになっているが、『丹州三家物語』においては9月に殺害されたとしており、上宮津盛林寺に存在する「一色満信」の位牌においても9月8日と記されている。▼
[[伊予国|伊予]][[新居浜市|新居浜]]で[[石川通清]]の[[食客]]となった[[一色重之]]は、細川氏の攻撃から落ち延びた義定の三男という伝承がある<ref>日野和てる『[[西條誌]]』 [http://www.lib.ehime-u.ac.jp/saijo/index/No.12/103.html 巻之十二]</ref>。重之の子孫は[[庄屋|大庄屋]]として幕末を迎えた。▼
== 備考 ==
なお、「[[細川忠利|妙解院殿忠利公]]御代於豊前小倉御侍帳並軽輩末々共に」では乗物かき小物頭の真下梶之助を一色義有の子としている。▼
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▲*[[伊予国|伊予]][[新居浜市|新居浜]]で[[石川通清]]の[[食客]]となった[[一色重之]]は、細川氏の攻撃から落ち延びた義定の
==脚注==
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