「後主 (北斉)」の版間の差分
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==逸話==
*自ら[[琵琶]]を弾き、「無愁の曲」を作った。近侍が一斉に和したので民間からは「無愁天子」と呼ばれた<ref name="tsugan">[[通鑑記事本末]]([http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/ 渡辺省のホームページ]より)</ref>。
*ある王に「任地にいた時、何が楽しかった?」と聞くと「[[サソリ|蠍]]をたくさん入れた穴の中に人を入れてもがき苦しむ様を見るのが楽しかった」と言ったので、同じようなことをさせると、その王を叱りつけた。「なぜ、このように面白いことを隠しておったのだ」と<ref name="tsugan" />。
*陥とされた[[平陽]]を奪還しに行った時、あと一押しで落とせるところまでいったが、馮淑妃と共に落城する様を見物しようと攻撃を止めさせた。馮淑妃の化粧に時間を取られたので、結局は落とすことができなかった<ref name="tsugan" />。
*陳に侵略された時、さすがに顔色は失ったものの、臣下に「まだ[[淮河]]以南を失われたにすぎません。[[黄河]]以南を失われたとしても我が国には[[クチャ|亀茲]]くらいの国力があります。一生遊び暮らすには充分ではありませんか」といわれて、そのまま納得してしまった<ref name="tsugan" />。
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== 評価 ==
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陳の[[後主 (陳)|後主]]と比較されるところではあるが、陳の後主は文化的には見るべきところがあり、後主のように酷刑を楽しむようなところはなかったから、人物的には陳の後主よりも下としかいいようがない。
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==宗室==
===后妃===
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*高買徳
*高質銭
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{先代次代|[[北斉]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第5代:565年 - 576年|[[武成帝]]|[[幼主 (北斉)|幼主]]<br />[[安徳王]]}}
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