「第7師団 (日本軍)」の版間の差分

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[[1904年]](明治37年)[[日露戦争]]に出征し、[[旅順攻略戦]]・[[奉天会戦]]に参加する。[[1917年]]([[大正]]6年)から2年間[[満州]]に駐屯し、[[シベリア出兵]]に参加。[[1934年]](昭和9年)と[[1936年]](昭和11年)にも満州に派遣された。
 
その後も[[1938年]](昭和13年)2月に[[関東軍]]の指揮下に入り満州に派遣、7月に[[張鼓峰事件]]が起きて出動、これは師団の交戦前に終結され、[[1939年]](昭和14年)には[[ノモンハン事件]]で[[第6軍]]隷下の[[第23師団]]に編入され[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]と交戦する。圧倒的なソ連軍機甲部隊に対し、ガソリン瓶で抵抗した[[須見新一郎]]連隊長率いる[[歩兵第26連隊]]の奮戦ぶりは語り草となっている。翌[[1940年]]に師団は旭川、札幌に帰還する。この際に札幌の[[歩兵第25連隊]]を[[樺太混成旅団]]へ転出して3単位師団へと改変されている。
 
第7師団は北辺の守りを担う重要師団であり、道民は畏敬の念を多分に含め、「北鎮部隊」と呼んでいた。[[1942年]](昭和17年)に[[一木清直|一木]][[支隊]]を編成し[[ガダルカナル島]]に派遣<ref>1942年(昭和17年)所属の歩兵第28連隊を基幹に一木支隊を編成し[[ガダルカナル島]]に派遣するが、支隊長が戦死する程の被害を受ける([[ガダルカナル島の戦い]])。派遣時2500名の兵力も帰還できたのは僅か140名だった。</ref>し、またアリューシャン列島のアッツ・キスカ両島へ部隊を派遣したが師団本体は1940年(昭和15年)8月に[[天皇]]直属隷下に置かれ、<ref>1941年(昭和16年)12月に[[北部軍 (日本軍)|北部軍]]に編入、1943年(昭和18年)2月北部軍の改組により北方軍に、1944年(昭和19年)3月には[[第5方面軍 (日本軍)|第5方面軍]]の編成により第5方面軍に編入された。</ref>師団は「動かざる師団」として旭川に在り続けた。1944年2月、留守第7師団に動員命令が下り、翌3月に第7師団は司令部を帯広に移駐し、[[歩兵第26連隊]]を帯広、[[歩兵第27連隊]]を釧路、[[歩兵第28連隊]]を北見に配置して道東方面の防衛に当たることとなった。計根別平野(現[[中標津町]])を決戦地として定め、海岸陣地やトーチカの構築に専念するものの、予期された米軍の襲来が無いまま、[[第二次世界大戦]]の[[終戦の日|終戦]]を迎えた。